時代を鋭く抉ってきた作家・適菜収氏。当サイト「BEST T!MES」の長期連載「だから何度も言ったのに」が大幅加筆修正され、単行本『日本崩壊 百の兆候』として書籍化された。
◾️総裁選より「ヘア論争」
2025年10月4日、高市早苗が自民党総裁に選ばれた。高市は選出後の挨拶で、自民党議員に対し「馬車馬のように働いていただきます」と呼びかけ、さらに「私自身もワーク・ライフ・バランスという言葉を捨てます」「働いて、働いて、働いて、働いて、働いてまいります」と発言。
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「休日返上?」。アホか。じゃ、私は「平日返上」で。
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私は昨年の暮れに体調を崩し、仕事の量を減らした。仕事をしなくなった理由はそれだけではない。なにかいろいろ「飽きて」しまったのだ。人間社会にも飽きた。
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知り合いの編集者から聞いた話だが、昔の人は電車やバスに乗っているとき、特になにもせずに、口を半開きにしてぼんやりしていることが多かったという。実際に見たわけではないので、本当かどうかはわからないが、ほとんどの乗客がスマートフォンを凝視しているような状況でなかったのはたしかである。
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現代人は、常になにかをしている。なにかをしていないと不安なのだ。それで無理やりスケジュールを組み、手帳のカレンダーを埋める。しかし、心は空虚である。なぜなら、世の中で本当にしなければならないことは少ないからだ。
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せっつかれるような生活から逃れるためには意識的に無駄なことをしたほうがいい。電車に乗っているときは、なるべく武田久美子みたいに口を半開きにする。無駄に寝すぎるのもいい。
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なにをすれば一番無駄かと考えたことがあるが、なかなか難しい。あやとりやはさみ将棋は頭の体操になってしまうし、流しそうめんはハードルが高すぎる。この連載で述べたように、私はぶどう狩りには否定的だが、あえて家族でぶどう狩りに行き、嫌な気持ちになって帰ってくるのもいい。
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今、正月に福笑いをやる家庭はどのくらいあるのだろうか。あれも無駄である。私は以前「友近福笑い」という遊びを考案した。普通の福笑いと同じだが、目や鼻、耳などの各パーツは友近のものを使う。某編集部にこの企画を出したら「人の顔で遊ぶのはよくない」と言われた。たしかにそのとおりだが、やったらやったで、すごく面白いと思う。
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なにをやったら無駄かと考えている時間が一番無駄なのかもしれない。
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「人生を無駄にしないほうがいい」というのは正論だ。しかし、人生の大半は無駄であり、徒労である。石を積み上げると鬼に壊されるという賽の河原の話がある。ギリシャ神話にも同じような話がある。アルベール・カミュはそれを題材に『シーシュポスの神話』を書いた。昔の日本人の性的コンテンツを手に入れる労力もそれに似ている。彼らは苦労して高価なビニ本や裏ビデオを入手し、どこか納得のいかない自分をごまかしながら、三流のコンテンツで充足していた。自己欺瞞である。しかし、今の時代なら小学生でも数秒で優良コンテンツにたどり着く。
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昔、「ヘア論争」というのがあった。陰毛がわいせつかどうかという議論だが、まさに不毛である。だから、あらためて「ヘア論争」を始めるのもいい。
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今でもはっきり覚えているが、約30年前、大学の入学式で配られた書類の中に、「在校生から新入生への案内」みたいな小冊子が入っていた。パラパラめくると、「山手線一周の僕の小旅行」という在校生の文章が載っていた。「入場券を買って電車に乗れば、格安で山手線を一周できる。車窓の景色を見ているだけで楽しい」と。私はそれを読んで暗い気持になった。なにが小旅行だ。くだらないにも程がある。反吐が出る。死ね。地獄に落ちろと。しかし、今となってはわからないでもない。お猿の電車と同じだ。
◾️小さなことに喜びを見出す
世の中、暗いニュースが多い。街を歩けばロクでもないことばかり。生きていて本当に面白いと思えることはあまりない。それでもごくたまに面白いことが発生する。「僥倖」という言葉もある。だから「なにもしないで待ってみる」のもいい。
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今年の3月、煮魚がおいしい店を見つけた。夜は割烹料理屋で、不定期でランチをやっている。ランチの煮魚は1日5食限定で、安くて味は洗練されている。私は魚が好きなので、早めに行って煮魚を食べるようになった。
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通っているうちにいろいろなことがわかってきた。毎回必ずいる常連のジジイがいる。サングラスをよくかけている。なにをしている人間なのかわからないが、その店の煮魚の価値がわかるのだから、それほど変な人間ではないだろうと当初は思っていた。一度、そのジジイの後ろに並んでいるとき、汗臭くて仕方がなかったので、店の中ではなるべく離れて座るようにした。
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そのうち腹が立つようになってきた。自分のことを棚に上げていえば、「毎回昼から煮魚を食いやがって」と。おそらくジジイも私のことを不審に思っていたと思う。「あいつはいつも来ているけど、昼間からなにをやっているんだ」と。
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あるとき、ジジイが行列の6番目になった。私は5番目だった。私の前に並んでいる人が全員煮魚を注文したら、ジジイは煮魚にありつけなくなる。私は少し心が踊った。ジジイががっかりするところを見たくなったのだ。しかし私の2つ前に並んでいたおばちゃんが、天ぷら定食を頼んだため、その望みは絶たれた。
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やがて「僥倖」が訪れた。先日その店に行くとジジイが並んでいなかった。珍しいこともあるなと思ったが、次に行ったときもいかなかった。翌週、店が空いていたので、店の女将に「いつも並んでいるサングラスのジイさん、最近見かけませんね」と言うと、女将は腕で大きなバッテンを作った。私が「なにかあったんですか」と聞くと、出入り禁止にしたという。女将が朝、店の前を掃除するとき、植えてある松の木の葉が切られていることに気づいた。以前にも同じことがあったので、警察に通報。防犯カメラをつけようかと相談していたときに、犯人はサングラスのジジイだったことが判明した。
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一体何のためにそんなことをしたのか。松の木の形が気に入らなくて剪定するためにわざわざハサミを持参したのか。趣味人か。いずれにせよ、ジジイは行く場所を失い、煮魚を食うことができなくなったのである。
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面白すぎる。世の中はまだ捨てたものではない。私は鬱々とした気分が吹っ飛び、なぜ犯人がサングラスのジジイだと判明したのか、肝心なことを聞きそびれてしまった。今度聞いておく。
文:適菜収