曖昧な告発と世間の空気によって犯罪者にされたジャニー喜多川と、潰されてしまった事務所。その流れは、今年の中居正広、さらには国分太一をめぐる騒動にも引き継がれている。

悪役を作って叩きまくる快楽。しかし、その流行は誰もが叩かれる対象になる時代の到来ではないのか。そんな違和感と危惧を、ゲス不倫騒動あたりまで遡り、検証していく。第9回は「『辞めジャニ』ツートップ、郷ひろみと田原俊彦に会ったときのこと。そして感じる、現代の闇深さ」



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第9回 「辞めジャニ」ツートップ、郷ひろみと田原俊彦に会ったときのこと。そして感じる、現代の闇深さ

 



 「辞めジャニ」こと、ジャニーズ事務所を退所した芸能人たち。最近では珍しい存在でもなくなったが、かつてはそれだけで退所後の動向、すなわち生き残り方が注目された。



 なかでも劇的だったのが、田原俊彦のケースだ。ドラマ『3年B組金八先生』の第一シリーズ(1979~80年)でブレイクして以来、10数年にわたって第一線で活躍したが、94年、長女誕生の会見を機に失速。



 「何事も隠密にやりたかったけど、僕ぐらいビッグになっちゃうとそうはいきません」



 というジョークが反感を買い、バッシングに見舞われた。その直後に本格的な独立をしたことで、サポート体制も弱くなり、仕事が激減してしまう。この状況が長く続いたため「辞めジャニの悲劇」を象徴する存在となってしまった。

 



 そんななか、筆者は復活するための奥の手を考えたことがある。2003年に出た『音楽誌が書かないJポップ批評23 みんなのジャニーズ』でのこと。錦野旦(にしきのあきら)が「スターにしきの」として再浮上したように「アイドル」を戯画化したトリックスターをやってみては、と勝手に提案してみた。それこそ「赤いポシェットを首にぶら下げながら『NINJIN娘』を歌い踊れば、ウケること間違いなし」というわけだ。



 もちろんジョークだが、この戦略がうってつけな理由をこう書いた。



 「(デビューから数年間の)彼ほど『アイドル』に必要な要素を持ち合わせていた人間は他に存在しないから。それは『歌が下手』とか『バカっぽい』とか『自意識過剰』とか、一見すると負の要素ばかりだったりするものの、こうした要素がひと塊になったとき、えもいわれぬ輝きを発する。アイドルの醍醐味とはそういうものだろう。さらに誤解を承知で言えば『ルックス』と『媚び』くらいしか能がないと見くびっているからこそ、世間は『アイドル』を許容する。小動物を可愛がるのと同じ気分で、大した実力もないくせにと侮りつつ、むしろそれゆえにニクめなさを感じてしまうのだ。すなわち『歌が下手』とか『バカっぽい』というイメージが強烈なほど、世間はその過剰なナルシシズムも一種の魅力として認知するに至る。当時のトシちゃんが無敵だったのは、つまりはそういう道理なのである」



 こうしたアイドル独特の魅力については、吉本ばななも「たとえ他人が作った信じられないくらい内容のない歌を、びっくりするくらい下手くそに歌っていても、どうしても『本人』が輝いてしまうところ」だと書いている。

まさに、田原のことを言っているようでもあり、彼こそが「THEアイドル」なのだ。



 ただ、幸か不幸か、彼はここから少し飛躍を遂げてしまう。ドラマ『教師びんびん物語』とその主題歌のダブルヒットにより、アイドルを超えた国民的人気者に。世間はその姿に、弱っちい小動物が百獣の王に進化したような奇蹟を見て、当初は拍手喝采でもてはやしたものだ。



 しかし、前出の「ビッグ発言」により、反動が起き、彼は百獣の王にはなりきれないまま失速した。そのあたりについて『Jポップ批評』ではこんな考察をしている。





  「じつは当時(90年)彼を取材する機会に恵まれた。媒体は『週刊明星』で、テーマは歌手・田原俊彦の歴史。自らヒット曲を的確に分析する口ぶりはけっしてバカっぽくはなかったが『It's BAD』を作曲した久保田利伸について『「こいつは、オレの曲書くために生まれてきたんじゃないか」って思うくらい、ハマったんだよね』とか、その後、マイケル・ジャクソンが『BAD』というアルバムを発表したことについて『オレのほうが先なんだから』とハシャぐ姿は、まぎれもなく『トシちゃん』だった。そんな、ともすれば子供じみて見える『自意識過剰』ぶりは、これから大スターとしてやっていくには少々危なっかしく思えたものだ」



 



 この時点で彼が、大スターにふさわしい貫禄もしくは謙虚さを身につけることができていれば、ああいう失速はせずに済んだだろう。



 とはいえ、失速後、地道な活動を重ねて復活。しばらく表舞台から消えていたおかげで「生きた化石」のように、昭和のアイドルの輝きを体現してみせている。

ジャニーズの歴史においても、ソロとしては最高の成功例。ジャニー喜多川に対する敬意や感謝も公言していて「辞めジャニ」のなかでも清々しい生き方が印象的だ。



「辞めジャニ」ツートップ、郷ひろみと田原俊彦に会ったときのこと。そして感じる、現代の闇深さ【宝泉薫】「令和の怪談」(9)
郷ひろみ



   そんな田原が登場したとき、先輩としてのライバル意識を見せていたのが郷ひろみ。『芸能人野球大会』での対決でやたらと闘志を示していたのが、記憶に残る。すでにバーニングプロダクションへと移籍していたものの、ジャニーズのソロアイドルとしては自分こそが草分けだという思いがあったのかもしれない。



 72年に歌手デビューした郷は、75年に退所。在籍期間は短かったが、アイドルとしての輝きはひけをとらない。ルックスはもとより、あの声に、ジャニーをはじめ、筒美京平、岩谷時子、酒井政利といった才人たちが惚れ込み、それまでの歌謡ポップスになかった軽さやバタくささをもたらす存在となった。



 そんな郷を取材したのは、前出の田原と同じ90年のこと。『週刊明星』で2号連続、計9ページにわたって掲載されたロングインタビューだ。そこでのやりとりを一部、引用してみる。



 



「特に、あの独特な声質をいかした、軽快でセクシーな歌唱法は、誰にも真似できるものではない。

そんなことを指摘すると『でも、僕が作ったものではないですからね。もともと、こういう声だったから』と、彼は笑った。が、天性のものだからこそ『スター』なのである」



 



 ただ、この時期の郷はちょっとくすぶっていた。70年代のジャニーズ事務所はまだ大手ではなく、移籍を強行しても人気は衰えなかったが、80年代半ば、松田聖子との破局あたりから右肩下がりに。ヒット曲からも遠ざかり、この取材前後には秋元康に頼って『アメリカかぶれ』という自虐的なタイトルのアルバムを出したり、そのなかで不倫ソングを歌ったりしていた。



 そういえば、活字にしなかった部分でちょっとした思い出が。途中、彼に電話が入り、そのまま長話になって、インタビューが20分くらい中断したのだ。時間的な余裕はあったので問題はなかったが、待たされているあいだ、芸能人の取材に慣れている編集者はこれを「彼の虚勢」だと指摘した。自分は相変わらず多忙なスターなんだというアピール、というわけである。



 なるほど、スターとは大変かつ面倒な仕事だなと感じたものだ。





 なお、半世紀を超える郷の芸能人生において、ジャニーズ期は十分の一にも満たない。が、ジャニーについては「生みの親」だとまで言っている。

また、過去に二度、活動を休止して渡米した理由について、



「うまく歌えない、踊れない、表現できないというコンプレックスを克服するためです。僕はジャニーさんから一度も褒められたことがなかった。それが悔しくて。レッスンを受ける間もなくデビューしてしまったのだからしょうがない、と自分に言い訳するのも嫌でたまらなかった」(婦人公論)



 と、振り返ってもいる。



 ジャニーにはジャクソン5、ひいてはマイケル・ジャクソンのようなスターを育てたいという夢があり、それを託されたのが郷や田原だった。退所後もずっと、ふたりには師を慕う想いが存在しているのだろう。



 しかし、このふたりに限らず、ジャニーズ関連の芸能人たちがジャニーへの想いを好意的に語る機会はなくなってしまった。芸能史に異彩を放った名伯楽の優れたマネジメント術について、その手がかりをこれ以上知ることができないという点で、大きな損失である。



 また、このふたりの退所後の運命、それこそ、干される干されないといった流れなどについては、退所時点でのジャニーズ事務所の勢いなどから、比較的理解がしやすい。



 



 一方、ジャニーズ騒動が起きてからの「辞めジャニ」については、謎が多すぎる。独立後、トラブルが発生したものの「示談が成立したことにより、今後の芸能活動についても支障なく続けられることに」なったはずの中居正広がなぜ引退に追い込まれたのか。さらに、国分太一の活動休止については、具体的な理由が何もわからない状況だ。



 そういう意味では、昭和より令和になってからのほうが、闇は深まっているのではないか。ジャニーズ騒動とその周辺、さらには松本人志の活動休止なども含め「怪談」と呼びたいのはそういうゆえんだ。



 



 それはさておき、郷ひろみや田原俊彦が「辞めジャニ」となったことで、はっきりと示された現実がある。ソロプロジェクトはそのひとりがいなくなった時点で終わってしまう、ということだ。グループならその点、メンバーがひとりやふたりいなくなっても継続できる。また、そもそも、ジャニーは少年たちが仲良くつるんでわちゃわちゃやっている光景を何より好んでいたようだ。



 そうしたこともあってか、ジャニーズは80年代中盤以降、ソロよりグループでという志向を強めていくことに。その路線変更により、ふたつの国民的グループが誕生する。SMAPと嵐だ。



 次回はこのふた組がなぜあれだけの存在になれたのか、についての考察である。



 



文:宝泉薫(作家、芸能評論家)

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