森博嗣先生が日々巡らせておられる思索の数々。できるだけ取りこぼさず、言葉の結晶として残したい。

森先生のエッセィを読み続けたい。なぜなら、自分の内から湧き上がる力を感じられるから。どれだけ道に迷い込み、彷徨ったとしても、諦めず前に進んでいけることができるから。珠玉の連載エッセィ「道草の道標」。第10回は「落ち着いているつもりなのに」





第10回 落ち着いているつもりなのに



【博嗣、落ち着きなさい】



 子供の頃によくいわれた。僕は落ち着きのない子供だったらしい。しかし、自覚はなかった。自分はわりと落ち着いている。慌てているつもりはないし、焦ってもいない。考えないで行動するようなこともなかった。むしろ、周りにいる同年代の子供の方が、衝動的な行動をしているように見えた。また、大人でも明らかに慌てて失敗しているのがわかった。

そういう観察をしていたから、自分はじっくりと考えてから行動するタイプだ、と認識していたのだった。



 大人になったあと、さすがに周囲からそんな注意を受けることはなくなった。実際、僕はいつも冷静な態度の人間だと思われている。どんな状況でも、驚くようなことはあまりない。人からどんな話を聞かされても、「あ、そう……」くらいの相槌を打つ。びっくりするようなことがまずない。内心びっくりしても、表に出さないだけだ。最近一番びっくりしたのは、ブラックホールが撮影されたことかな。あれには驚いた。でも、腰を抜かすようことではないし、周囲の誰もそのことで驚いていないようだった。



 落ち着きのない子供に見られていたのは、たぶん、すぐに視線を逸らす癖があったからだろう。このため、作業の途中でよそ見をしてしまう。

あるときは、それで怪我をする。持っているものを落とすし、手や足をどこかにぶつけることも頻繁だった。そう、よく怪我をする子供だったのだ。親は心配し、落ち着け、落ち着け、と繰り返した。



 幼稚園児のときに、目を瞑って歩いていて用水に落ちた。小学生のときは、土管に滑り込んだつもりが、額を打ちつけ、頭から大量出血。中学生では、地下鉄の階段から落ちて腕を骨折。それ以外にも、細かい負傷が多く、合計すれば30針ほど縫っている。いずれも原因は不注意だが、何故不注意なのかというと、落ち着いていなかったからではなく、単に見ていなかった、見ていても他ごとを考えていた、といった原因。もう少しいえば、頭で理解している状況に肉体がついてこられなかった、というわけである。



 老年になってようやく、そうか、頭と目が先走っているのだな、と気づいた。いろいろ失敗するのはこれが原因だったか、と理解できた。

それまでは、単「不器用」だと処理していた。躰の運動性能が不足しているのが原因だと分析していたのだ。だが、親が指摘した「落ち着け」とのアドバイスは、正しかったのである。ソフトが速すぎてハードが伴わない。多動症だったといっても良いかもしれない。





【考えていることの全部は実現しない】



 長年ずっと対処しなかったわけでもない。不器用だし、非力だし、すぐ疲れるし、筋肉痛になるし、とにかく考えていることが、そのまま実行できない。しかし、その低性能のハードにつき合ってソフトを遅くすることはできなかった。ものを考えたり、あれこれ周囲を観察する目は、速く動かそうと思ってやっているのではない。意思でコントロールできないのだ。もう少しゆっくり考えよう、じっくりと見よう、とはいかない。これは試してみたけれど全然駄目だったので、早い時期に諦めた。



 そこで、考えたことの全部を実行するのは不可能だ、思いついたことを全部はできない、やりたいことの半分以下しか実現しない、そんな「悟り」に至った。そして、考えただけのこと、思いついただけのこと、やりたいことなどは、そのまま仕舞っておきましょう、となり、頭の片隅に押し込んでおくようになった。ちょうど、欲しくて買い求めたガラクタのおもちゃとか、作り始めて途中で投げ出した仕掛け品とかを、段ボール箱に入れて地下倉庫に保存しておくような感じである。捨てるようなことはしない。いつか役に立つかも、いつかまたやりたくなるかも、いつかできるようになるかも、と仕舞っておく。ときどき、「そういえば、これに似たものがあったな」「あれが今、使えるのではないか」と思い出し、倉庫を探し回る「発掘タイム」になるのである。



 商売や企業だとそうはいかないだろう。余計に生産してしまったら、困ったことになる。倉庫に保管するだけで経費がかかる。食べものなら、作りすぎた分は廃棄しなければならず、社会問題にもなる。だが、考えたこと、アイデア、計画、構想、イメージ、思想といったものは、場所を取らない。電子信号と同じ。

これらを仕舞い込むエネルギィは比較的小さいし、もちろん、それが人間の頭の中であれば、僅かなデメリットしかない。それは、忘れてしまうという紛失だけ。べつに忘れても良い。忘れるようなアイデアは大したものではない。それに、一度忘れて出てこなくなっても、関連した条件や、それが役に立ちそうなとき、つまり、いざというときには思い出すものなのだ。



 そういう思いを何度もしたから、僕はアイデアをメモしたりしないし、そもそもメモできそうにないのが「発想」なのである。僕にとって、思考というのは文字化が難しい。だから、考えていることを文章に落とすような習慣がない。無理に文章にすることで失われるものの方が多い。ジャンク品や壊れたおもちゃを大事に保存しているのは、もしそれを完成させたら失われるものがあるような気がするからでもある。ものを完成させると、未完成のものが持っていた可能性の大部分が失われてしまうのだ。





【質問にお答えします】



 まずはこの質問。

「よく明日死ぬとしたら、何をしますか? という質問がありますが、森先生は明日からあと100年生きられますといわれたら、何をしますか?」



 何もしません。普段どおり。よく仮定を持ち出す質問がありますが、その仮定が非現実なら影響されません。考えもしないし、たとえ考えても、なにも思い浮かばない。



 では次。「先生にとって頭のいい人とは、どのような資質や特徴を持つ人だと思われますか。またご自身が教鞭をとっていた際、それに該当する学生は、どれくらいいらっしゃいましたか」



 いろいろな頭の良さがあって、一概にいえません。回転が速い、発想が豊か、処理が的確、博学、柔軟、独創、などとあって、さらにそのそれぞれに広がりがあります。資質や特徴もさまざまで文章化できない。また、教鞭を取るくらいでは才能は発見できません。その人が何をしたか、しか見ることができない。なにをしそうか、で判別するよりは的確なので、しばらくその人が生み出すものを見守ることで、片鱗がわかる程度。



 次は専門的。「死体をドラム缶に入れてコンクリ詰めみたいな話がありますが、ドラム缶に死体を入れてコンクリートを流し込む作業って非常に大変じゃないですか? そしてそれはもの凄く重くて運ぶのが大変だと思うのですが、つまり非効率この上ないと思うのですが、実際はそれほど難しくないのでしょうか?」



 殺人よりは難しいと思います。普通サイズのドラム缶は200リットルで、水を入れると200kg(容器で20kg以上プラス)。人間の比重は水と同じくらい。コンクリートは水の約2.3倍。つまり、人間とコンクリートでドラム缶を満たすと約450kgの重さになり、移動にフォークリフトが必要。また、この量のコンクリートを練るためには、かなり大きなミキサが必要。生コン屋さんに注文すれば持ってきてくれるが、悪事発覚の恐れがある。ただ、耐久性は高く、海底か土中に隠すことができたら、自然劣化することが少なく、100年くらいは隠し通せる可能性が高い。



 最後の質問。「被害者の加害者への糾弾が半永久的に続くことは、罪の有無にかかわらず、被害者意識のある限りしかたのないことでしょうか」



 そのように観察できますね。自分だったら、そこまで執着しないだろう、と想像するが、世間には「執念」といえるものを一生涯貫く方がいらっしゃる。全員がこうだとは思わないが、その種の事例が多数あるので、不自然ではなく、普通なのかも。





【慌てないように生きていく】



 親はもういないので、僕に注意をする人は今は奥様(あえて敬称)くらいになった。その彼女も、人にとやかくいわれたくない性格で、他者にもとやかくいいたくない、とお考えのようだ。だから、ほとんど注意を受けない。穴のあいた靴下とかを「早く捨てなさい」といわれる程度。近くのものが見えていないことも、ときどき指摘される。こういうのを昔は「秋めくら(ワープロが変換してくれない)」といったものだが、僕は子供のときに散々こう呼ばれた。僕は文字を読み間違えるし、書くと必ず誤字がある。



 工作で何度怪我をしたことか。最近でも1年で5、6回はバンドエイドを使う。これは危ないぞ、とわかっていてもつい怪我をしてしまう。庭仕事でも怪我をするが、棘がある植物のせいだ。それでも、成人以前に大きな怪我はだいたい体験済みなので、さすがに注意深くなった。血を見るのが苦手で、貧血になりそうなくらい怪我に弱いので、とにかく危険なことを避け、石橋を叩いて生きてきた。



 2人の子供たちにも、僕の性格が受け継がれているようで、大いに心配している。奥様の血を引き継いでもらいたかったが、うまくいかないものだ。



 ちなみに、自動車の運転では、自分のそそっかしさが今のところ封印されている。やはり自覚しているから、ドライブするときは運転に集中しよう、というモードになるためだろう。運転のことしか考えないし、ラジオも音楽も聴かない。ぶっつづけで何時間も運転しない(せいぜい2時間が限界)。というわけで、これまで一度も自分からぶつかったことはない。保険で修理をしたことは過去に3回しかなく、そのいずれもが相手の保険から全額出してもらえた。



 ここ10年間での最大の怪我は、荷物を運んでいて庭の切株につまづいて転んだときくらいである。奥様(あえて敬称)は、布団を抱えてデッキで足を踏み外し、1カ月間杖をついていたから、今の僕は比較的安心安全である。頭がぼけてきて、ちょうど良い演算速度になったことも幸いしている、と解釈できる。



 人それぞれ、持って生まれた性能がある。無理に変えようとせず、持ち駒を生かす戦術をおすすめするし、そもそもそれ以外の戦術はない。慌てん坊で怪我が多くても、自動車の運転は普通にできた、というだけの話だが。







文:森博嗣





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