早稲田大学在学中にAV女優「渡辺まお」としてデビューし、人気を博すも大学卒業とともに現役を引退。その後、文筆家・タレント「神野藍」として活動し、初著書『私をほどく~ AV女優「渡辺まお」回顧録~』を上梓した。

いったい自分は何者なのか? 「私」という存在を裸にするために、神野は言葉を紡ぎ続ける。連載「揺蕩と愛」#19は「現実逃避の激流からようやく静かな朝を迎えられるまで」



不眠、仮眠、アルコール、眠剤……現実逃避の激流からようやく静...の画像はこちら >>



◾️休職を願い出た



 朝六時。



 細切れになっていた睡眠の延長を諦めて、身体を起こす。最近飲み始めた睡眠薬はどうも身体に順応してきたようで、お守り程度の効き目になっていた。布団の中から温い犬が顔を出す。飼い主の完全な起床を悟ったようだが、その顔を確認して再び布団の中に戻っていった。居心地が悪いのか布団の中を探検したのち、私の冷たい足先に寄り添うように寝始めた。ふわふわとした毛が足の指に絡まる。するするとした直毛はくすぐったさを感じさせず、朝の私に心の安寧を運んできてくれる。



 枕元に置いていた加熱式たばこに手を伸ばし、スティックを差し込む。わざわざ換気扇の下にもベランダにも出ることなく、布団の上で怠惰に吸えるのが一番気に入っているところかもしれない。過去の癖で加熱完了を知らせる合図の前に口に咥えてしまう。

何かの記事で「タバコをよく吸う、つまりは唇に何かを触れさせる行為は幼少期の愛情がなんたら」と読んだが、そんなことに因果関係はあるのかと笑ってしまったのを思い出した。身体の中に有害と言われるものを取り込むことで、幼少期の飢えていた感情を今更満たせるなんて思っていない。数回呼吸したところでようやく煙を吐き出せるようになった。私はせっかち。ほんの十数秒を大人しく待つこともできなかった。



 夜の熱を残した静まりよりも朝の冷たい沈黙の方が私の身体に合っている。数ヶ月間必要に迫られて昼夜問わず作業した余波で、朝の時間は仮眠を取るだけの時間に成り果てていた。朝日を合図に起きていた私が、朝日を合図に眠りについて、携帯にセットされた9:00のアラームでふらふらになってパソコンの前に座っていた。何度か繰り返したあたりから朝を「私をスタート地点に戻す嫌なマス」と憎む私がいた。



 仮眠から立ち上がることができず、真っ白な天井にあるはずのないシミを数えるようになった日に、上司に休職を願い出た。あっさりと承諾が下りた後、私は天井のシミを探すことなく、再び眠りについた。





◾️偶然が必然に変わった瞬間



 不眠と仮眠を行き来したのち、ようやくかつてのように朝を迎えられるぐらいに戻った。

今の家は朝日は差し込んではくるが、色のついた光ではなく、ただただ白い光が差し込んでくるだけ。ぼんやりとした温かみが入ってきた昔の家が恋しくなる気持ちはあるが、今の温度だけを感じられる部屋も気に入っている。



 壁に上半身を任せて布団の上にパソコンを置く形でこの文章を書いているが、暖房を入れているのを忘れるぐらいに手の先は冷たくなっていく。その冷たさが朝の輪郭をより際立たせて、「ああ、私は私の世界に戻ってきたんだな」と胸を撫で下ろした。この冷たく真っ白い時間が私の背筋を伸ばしてくれる。全てを闇で包み込みアルコールで身体を溶かす時間も悪くはないが、自分の力だけで全身に血を送り出しているのは今の方が感じられる。



 携帯が数回振動した。偶然ではなく必然でメッセージを送信する相手からだった。現実では距離があるはずなのに、なぜか背中合わせで何かをやっている気持ちになる。この人もこの人自身の朝を始めたんだなと思いながら、パソコンから携帯へと文字を打つ先を変えた。



 私の心に凪が訪れた。数ヶ月続いた思考の戦争が終わったらしい。

医者から言われた錠剤を飲み込もうと、現実を忘れるためにアルコールを取り込もうと、一人で街の背景に溶け込もうと、消えていなかった私の激流が、ぴたっと流れるべき場所に収まり、静かな朝を迎えた。最後まではまらなかった欠片が見つかったようだった。



 作業の裏で流れていた音を止め、ベッドから這い出る。飼い主の動きを察知した犬も同じように布団から出て背伸びをしていた。「あんたもやってみなよ」と言われたような気がして、私も丸まった背中をぐっと伸ばした。





文:神野藍

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