◾️小学6年生の研究授業で目にした信じられない光景
小学6年生の教室である。研究授業がまさに始まろうとしている。
さらに、子どもたちを窺うと
「こんなに先生がたくさん集まるのか、『あっ、○○先生だ』」
「△△先生はいないな。俺が一番信頼できる先生なんだけどな」
そんなことを言いながら、二人は○○先生に軽く手を振っている。
私は、子どもたちが他者を意識していないことにめまいがしそうなくらいに驚かされた。
毎朝の事だが、私は自分の教室に向かうまでの間に、多くの子どもたちとすれ違う。そして、その廊下ですれ違う子どもたち一人ひとりに
「おはようございます」と挨拶をする。これは前任校からの私のルーティンだ。
ところが、新任校での子どもたちの反応が前任校とあまりに違うので、その違いに戸惑いさえ感じた。なんと、すれ違うほとんどの子どもから挨拶が返ってこない。「返事が返ってこない」というよりも、私の挨拶に対して全く無反応であり、無視されているように感じたのだ。
それは、私にとってアウェー感いっぱいのきつい洗礼だった。
(市内の小学校に転勤した元同僚教師の話である)
このような状況は、ある地方都市の日常である。しかし、この日常が特別な例かといえばそうではない。日本のあちこちの地域(都市部または都市部近郊)の学校で繰り返し見られる現状だといってもいい。繰り返しになるが、私が教師になり今に至るまで、このような状況は、けっしてある地域の特定の小学校に見られるものではないことを申し上げておく。
上記の6年生の様子や挨拶できない子どもたちの様子を思い浮かべると、「学校ってここまで幼かったかな」そんな思いが湧きあがってくる。そして、その思いと同時に私が初めて6年生を担任した時の子どもたちの姿が浮かんでくるのだ。
◾️「この教師はほんとうにやる気のある教師なのか」という生徒の眼
45年前、私は教師として子どもたちの前に立っていたが、私は常に子どもたちに「この教師はほんとうにやる気のある教師なのか」ということを試されていた。ちょっとでも手を抜くと、子どもたちはするすると私の手の中をすり抜けて私の届かない所にいく恐怖感があった。4月、5月、6月と月日の経過と共に、子どもたちに理解されていったが、私と子どもたちは常に緊張感の漂う関係にあった(子どもたちに感じられないようにしていたが、子どもは感じ取っていただろう)。
また、6年生の姿や挨拶を返せない子どもたちの姿を思い浮かべる度に、「当たり前のこと」ができない、その幼さに頭を抱える(これを読むと「当たり前って何ですか」と訊いてくる人が必ずいるが、それこそ日本人が「幼稚に」なった一因でもあるのだが)。
しかし、そもそも、子どもは自ら幼くなっているのではなく、我々大人から影響を受けて幼くなっているということを忘れてはいけないのではないだろうか。
元慶應大学の教授である福田和也氏(故人)は「幼稚」について、著書『なぜ日本人はかくも幼稚になったのか』の中で、次のように簡潔に語っているが、私も至極納得した。
・幼稚とは、肝心なことに目をつぶっているということ
・幼稚とは、自己を顧みない、という人として基本的な心の動きが欠けているということ
どのような環境下で子どもは育ってきたのか、育っているのかで、子どもの現状は大きく異なる。「親ガチャ」ではないが、教師という存在、親という存在は子どもにとって最も影響力のある環境の一部だと私も思っている。子どもの話し方や歩き方を見てほしい。恐ろしく教師や両親に似てはいないだろうか(特に愛着関係や信頼関係にあればあるほど)。
話し方や歩き方などは意識して子どもに伝えられるものではない。それなのに親や教師の話し方や歩き方が似てくるということは、それだけ「子どもは教師や親をしっかりと見て、同じような動きをしている」ということではないだろうか。特に子どもと愛着関係や信頼関係にある教師や親の言動は、表出していても表出していなくても、子どもは教師や親の思いを感じ取り、その思いに応えようとするものなのだ。
福田氏の言葉を借りるならば、最も影響力のある大人がもし肝心なこと(=やらなければならないこと)から逃げている姿を子どもに見せていれば、それは子どもの内面にも刷り込まれていき、自分にとっていやなことであれば、子どもたちは目をつぶるに違いない。
◾️今、どれほどの教師が自分の教育理念を持っているのだろうか
話を研究授業(初めの話)に戻そう。研究授業の子どもたちの様子を見ていると、教師が研究授業をどのように捉えているかが分かる。日々、教師は自分の教育理念の基に授業を考え実践しているのだが、その繰り返しを通して教師の理念や教師の大切にしている思いが子どもたちに浸透していく。
思うに、研究授業は教師にとって「肝心なこと」である。その肝心なことに真摯に向きあい、その姿を見てもらうということになると、緊張感はつきものだが「6年生の教室」にはそのようなあらたまったものが全く感じられなかった。教師からも子どもたちからも全く感じられないのだ。つまり、この教師が肝心なことから逃げているということに他ならない。このように肝心なことから逃げる教師の下で、子どもが幼く育つのは当然と言えば当然である。
私は、クラスを担任している時、子どもたちに「幼稚」について話すことが度々ある。特に、低学年を担任した時には必ず「幼稚」について子どもたちに訊くのだが、ほとんどの子どもは
「幼稚になるのはいやだ」
という。その理由は明確ではなくても「幼稚」という言葉から感じられる負のイメージを子どもたちなりに感じ取っているからだろう。
そこで私は子どもたちに「幼稚」について次のように続ける。
「みんなは『幼稚は嫌だ』と思っているようなので、幼稚ってどういうことなのか、先生が教えてあげるね。幼稚は次の3つのことから出来上がっています」
*お話を聴けない→お話が聴ける
*今何をやっているか分からない→今何をやっているか分かる
*みんなでできない→みんなでできる
◾️「幼稚」とは「肝心なことに目をつぶること」「自己を顧みないこと」
私は、福田氏のように「幼稚」を「肝心なことに目をつぶること」「自己を顧みないこと」だと言語化できていなかったが、「なぜ、日本人はかくも幼稚になったのか」を読むことで、子どもたちがこれらの3つのことを意識するという事は、「自己を顧みる」ということなのだ、ということを確認することができた。
先述した「当たり前」も、我々の生活(文化)の上に成り立っている。「あいさつ」が我々の生活の中からなくならないのは、我々の生活に必要なものだからだ。はるか昔から、年月を重ねながら「あいさつ」は我々の生活の中で「当たり前」になってきた。ということは、「あいさつ」=「当たり前」は、我々の生活の中では「肝心」なことになったといえるだろう。自己を顧みられない「幼稚さ」と合わせて、肝心なことに目をつぶる「幼稚さ」も、我々はもっと意識しなければならないのではないだろうか。
文:西岡正樹
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