台湾へ旅をしたくなった理由。そして台北の公園で見つけた「2つ...の画像はこちら >>



   



◆旅の始まり

 



 2025年11月28日、日が落ち始める頃、薄曇りの台北、松山空港に着いた。「イミグレ」や「通関」は気の抜けるような早さ。

厄介なほど重いバッグを抱え動いている私は、タクシーでホテルに行くことに決めていたので、通関するやわき目も触れず、ただただタクシー乗り場に一目散。タクシー乗り場はどこの空港もそう遠くない所にあるはずだ。松山空港も例外ではなかった。



 ところが、突然現れた群がる大勢の人たちを目前にして、私の口から「えーっ」思わず声がもれそうになった。すぐに、その群れがタクシー待ちの人たちの列だと分かったからだ。その列が蛇のようにくねり、その最後尾がどこなのか確認できない。



 「これは長い待ち時間になるな」と思いながら、私は蛇のしっぽに並んだ。



 このような状況になると、たやすく覚悟を決められるのは、今までの旅の経験値かもしれない。焦りが消え、列に並んで人々を眺めていると、どうもツアー団体客が台湾に戻ってきて、それぞれの家路につこうとしているようなのだ。その多くのツアー客が、一斉にタクシー乗り場にやってきた、まさにその只中に私は居る、ということがなんとなく推察された。「イミグレ」や「税関」があっという間に通過できたので気を抜いていたが、「まあ、旅というのはこういうものだ」と自分を納得させ、大声で話をしている人たちや疲れて座り込んでいる年配の女性の顔を見比べていた。



 1時間近く待ち、ようやく乗ることができたタクシーだったが、空港を出るやなかなか前に進まない状況に陥った。

一難去ってまた一難。



 「台北の帰宅ラッシュの時間なのかもしれないな」そう思いながらも、やわかいシートに体を沈めた私の気持ちは、すでに地図上でそう遠くない今日の寝床である「ファーストホテル」に移っていた。



 ところが、である。まもなく、タクシーはさらに長い車列に吸い込まれていったのだ。「ピタッ」と止まったタクシーは微動だにしない。長時間、あまりに動かないタクシーに業を煮やした私は、翻訳機に打ち込んだ。



 「ホテルまでどれくらい時間がかかりますか」



 すると、運転手さんは「そうだよね」という目をし、私の顔を見た。そして「イー、アル、サン、スー・・・・」と言いながら指を折り、最後に笑顔で言った。



「テン」



「10分か、もうすぐだ」



 自分に言い聞かせたのだが、迂闊に信じるわけにはいかない、やはり不安はぬぐえない。



 再び覚悟を決めた私は、再びシートに身を委ねた。すると、ほどなくして予期せぬ声がした。



 「ここだよ」



運転手さんの言葉の意味が伝わったのではなく、運転手さんの気持ちが私に伝わったのだ。

指さす方を見ると、「第一飯店」(ファーストホテル)の看板が見えた。



「着いちゃった」その時の私の素直な思いである。私の旅の中ではめったに泊まることのない高級(?)3つ星ホテルだ。



 厄介なほど重く大きなバッグを自分でタクシーから降ろし、フロントマンに促されて先客の後ろに並んだ。家を出てから9時間以上、疲れを両肩に感じながら肩をぐるぐる回していると



「パスポート、プリーズ」



の声がした。



台湾へ旅をしたくなった理由。そして台北の公園で見つけた「2つの鳥居」と「台湾の歴史」【西岡正樹】



 



◆早朝の街(台北)、その佇まい

 



 窓から眺めた早朝の台北は、少し靄にかすんでいた。街中を歩いた。ビル群の中を4車線の道路に沿って風が流れていく。心地よい風だ。その風に触れていると2、3日後に12月がやってくることが想像できない。自分が南の島にいることを実感する。



 台北の街を歩いていると、突然時間を遡ったようなビルに出逢う。

それらのビルは狭い間口に重なるように建っている。そこには、カラフルな看板、むき出しになったエアコンの列、そして黒ずんだシミが外壁を包んでいた。この古いビルたちがこの街のアクセントになっていることは間違いない。



「『今』は『過去』の先っぽにある」そんなことを思っている自分は、日常の自分ではない。



 「車の通らない4車線の道路はまるで滑走路のようだ」





台湾へ旅をしたくなった理由。そして台北の公園で見つけた「2つの鳥居」と「台湾の歴史」【西岡正樹】





 日本人は台湾から遠くにいて、様々な不穏な情報から勝手にイメージを膨らませる。今にも何かが起きそうなイメージを持っている日本人は、勝手なことを思い、言葉にしてしまう。しかし、昨日の空港の様子もそうだったのだが、台湾の人たちにとっては「台湾有事」なんて大きなお節介、大きな迷惑なのかもしれない。また、ずっと緊張感に浸っていると緊張を意識しない。緊張を再確認するようなことを「あらためて言われても」という感じなのではないだろうか。



 そんなことを思いながらさらに北へ向かって歩いていると、濃い緑の木々に覆われた公園「林森公園」(名称)が見えてきた。私の足は、ほぼ無意識に緑の林(東)に向きを変える。心地よい空気と緑の木々。

意識せずとも体が向かうのは至極当然のことだ。予想以上に大きく高い緑の木々を抜けると、サッカーグランドほどの芝生の広場に出た。周回の道を散歩する人、体操する人、太極拳のように体を動かしている人、そこには日本の公園と変わらない風景があった。しかし、体を動かしている多くの人は、私と年の離れていない老人ばかりだ。ここが台北(大都会)のど真ん中にある「林森公園」だということを思えば、日本の日常とは異なる人々の時間の流れが見えてくる。



台湾へ旅をしたくなった理由。そして台北の公園で見つけた「2つの鳥居」と「台湾の歴史」【西岡正樹】
 



 



◆佇む日本

 



 林森公園内を歩道に沿って歩いていると、鳥居が見えた。



「日本の鳥居だ」



 思わず声に出してしまってから、私はそんな自分の声に恥ずかしくなった。声を出したことが恥ずかしいのではない。台湾の歴史を振り返ればあってもおかしくないのに、むしろ当然の事だと言ってもいいことなのに、「声に出してしまった」という思いが湧いてきたからだ。



 鳥居に近づくと、鳥居は大小2基あった。その2つの位置が近すぎる。その距離に不自然さを感じながら、さらに近づくと案内板が目についた。

案内板に目を通すと、この「林森公園」の歴史と同時に、鳥居の不自然な建て方が理解できた。「日治時代」(日本が台湾を統治した時代)、ここは墓地だった。



 墓地には、第3代台湾総統の「乃木希典」の母や第7代総督の「明石二郎」が埋葬されていた。日本統治の時代が終わると、墓はどこかに移動させられた。しかし、その後も3つの鳥居がここに残されていたことが確認されているが、1つの鳥居がどうなったか分からない。日治時代、明石総督など権力者の墓には鳥居が設置されていたことが分かっている。ここに残っている2つの鳥居は、1つは明石総督(大)のものであることが確認され、もう1つは、第8代鎌田総督(小)のものではないかと推測されているようだ。



 鳥居の横にあるガジュマルの木は太く存在感がある。大小2つの鳥居を包むように枝を広げ、葉が繁っている。清の時代、日本統治の時代、国民党の時代、と流れていく時間の中で、その流れをじっと見つめていたのだろう。「2つの鳥居」と「ガジュマルの木」。私はガジュマルの木の下のベンチに座り、「2つの鳥居」と「ガジュマルの木」を眺めていた。



 現代に至るまで、台湾の歴史は支配の歴史である。その歴史の一端を眺めていた「2つの鳥居」と「ガジュマルの木」を見ていると、日本という国が相似形のようにも見えるし、まったく異なる形の国のようにも見える。支配者である日本を象徴するような「鳥居」を残した台湾の人たちは、「日本」を残すことで何を意識しようとしているのだろうか。目の前にある「日本の佇まい」から何を学ぼうとしているのだろうか。大いに気なる所である。これから始まる私の台湾をめぐる原付バイクの旅は、台湾を通してさらに日本を感じる旅になりそうだ。



 



文:西岡正樹

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