何が起きるか予測がつかない。これまでのやり方が通用しない。
第24回 松本清張が死ぬまで小説を書き続けられた理由『松本清張の昭和』酒井信 (講談社現代新書)
■81歳で亡くなるまで、何故精力的に書き続けられたのか
昨年は昭和100年ということで、昭和がクローズアップされた。メディアがこぞって「昭和特集」を組み、当時の映像が数多く流れたが、そこに駅の伝言板の姿を見て、私は懐かしさを覚えると同時に、昭和は遠くなったとしみじみ思った。
30代以下の人はご存じないと思うが、かつて駅には伝言板があった。待ち合わせをしていて相手が来ない時など、「先に行ってるぞ 13時15分〇〇」と書いておく。遅れてきた相手は伝言板を見て、慌てて後を追う。
携帯電話がなかったので、家を出てしまうと、相手と直接連絡をとる術がなかったのだ。
相手が来なければ、携帯電話にメールか電話をすればいいし、相手によっては、GPS機能を使って何処にいるのかも分かってしまう、今の若い人には考えられないだろう。
消えてしまったのは、伝言板だけではない。
昭和という時代は第二次世界大戦をはさんで、大きく変わった。敗戦直後は想像を絶する混沌があったはずだが、日本人はその中で足掻き、苦しみ、尋常ならざる努力を重ね、平和で豊かな日本を築いた。
そんな昭和という時代を、昭和を生きた日本人を、描き続け、膨大な作品を残した作家がいる。
松本清張だ。
清張が作家としてデビューしたのは、1950(昭和25)年12月だった。『週刊朝日』の「百万人の小説」の三等に、彼の「西郷札」が入選したのだ。当時清張は41歳。それから、1992 (平成4)年8月に82歳で死去するまでの41年間に著した著書は750冊、作品は1000点にのぼる。
私は熱心な清張ファンというわけではないが、「西郷札」、「ある『小倉日記』伝」などの初期作品から、「張込み」、「顔」、「一年半待て」「鬼畜」といった短編小説、「点と線」、「ゼロの焦点」、「砂の器」の長編推理小説と、いわゆる代表作は読んでいて、清張という作家に対して興味を抱いていた。
いちばんの関心は、人気作家となった清張が何故81歳で亡くなるまで、執筆意欲を失うことなく精力的に作品を書き続けられたのか、ということだった。
清張は1960(昭和35)年、51歳の時に日本の長者番付作家部門で1位になった。当時の年収は6,100万円。現在の価値に換算すると3億5,691万円にあたる。さらに翌年の61年も、その翌年の62年も1位であった。自分の筆一本でこれだけの収入を得ていたのだ。
普通の作家だったら、ここまで作品が売れれば、満足もするし、怠け心も出てくるだろう。毎日机にかじりついて原稿を書くのがばかばかしくなり、ゴルフをしたり、酒を飲んだり、女と遊んだりするのではないだろうか。
清張も全く遊ばなかったわけではないようだが、60歳になっても、70歳になっても、80歳になっても、仕事の量を減らすことなく書き続けた。清張の執筆意欲を鼓舞していたのは一体何だったのだろう。
■家族という決して切り離すことのできない血と情のしがらみ
昨年(2025年)末に刊行された『松本清張の昭和』は、長年の私の疑問に一つの答えを提示してくれた。
本書はまず、作家デビューを果たす直前の松本清張に光をあてている。
1950年12月、清張の小説が『週刊朝日』の「百万人の小説」の三等に入選した。入選作の「西郷札」は西南戦争時に西郷軍が発行した軍票をめぐって人間の欲望が渦を巻く歴史小説だ。
「西郷札」を書いた時、清張は朝日新聞西部本社の社員だった。とはいえ記者ではなく、新聞広告の版下を作る印刷画工だった。
戦後間もなくは、新聞に広告を出す企業などなく、給料は少ない。そこで清張が副業として始めたのがほうきの仲買いだった。わらぼうきを安く仕入れ、西日本各地を回って売り歩いたのである。
「この経験を通して清張は、商売の駆け引きを学び、旅の喜びを知り、『足で稼ぐ』ような筆致を手に入れた」、またこれこそが「清張が人気作家になることを後押しした決定的な経験」であると、著者の酒井信は指摘する。
しかし、生活が苦しいといっても自分一人であったなら、ここまで頑張らなかったかもしれない。清張には妻と子供4人、さらに自分の両親と、養わなければならない家族が7人もいたのである。
第二章では、「記憶」、「父系の指」、「半生の記」、「骨壺の風景」、「雑草の実」、「思宜の紐」など、清張の自伝的小説をもとに、その生い立ちを明らかにしている。
松本清張は公式には、1909年12月21日に福岡県企救郡板櫃村(現在の北九州市小倉北区)で生まれたことになっている。しかし、著者は残された写真やインタビュー記事から、本当は1908年2月12日、広島市蟹谷町生まれではないかと推測している。
清張の父、松本峯太郎は車夫、母、タキは紡績女工だった。車夫とはいえ、元は裕福な地主の息子であった父はタキを戸籍に入れることをよしとせず、生まれた子供も籍に入れなかった。そのため、清張は「庶子」、古い戸籍には「私生児」と書かれていた。
家は極貧で夫婦仲は悪かったが、清張は父からも母からも溺愛されて育った。両親の愛は清張にとっては負担であったようだが、人から無条件に愛される経験は得難い。自分を愛してくれた両親を清張は最後まで見捨てなかった。この親子の絆が清張の作家として、人間としての根本にあるように思う。
例えば北大路魯山人は生まれ落ちるとすぐに里子に出され、貧しい家を転々とさせられた。
極貧から己の才能で人生を切り開いたことで清張と魯山人は共通しているが、魯山人は生涯家庭に恵まれなかった。結婚と離婚を繰り返し、五人の妻を娶ったが、どの妻とも長くは続かなかった。子供もできたが、愛情をそそがなかった。
魯山人にとっては、家族よりも、自分が作る料理や器の方が大切だった。もっといえば、人間などどうでもよかった。魯山人の作る器は確かに美しい。しかし、それは非人間的な輝きに満ちている。
一方清張は両親から愛され、家族を愛した。たとえ難があっても家族は切り離すことのできない血と情のしがらみなのだという確信こそが、清張の作家として強さなのではないかと、第二章を読んで、思った。
■「学歴という壁」そして「エリートに対する羨望と嫉妬」
第三章では、清張の学歴について述べられている。
松本清張はその生涯において、8年しか教育を受けていない。
本当は文章に関わる仕事をしたくて、「鎮西報」という地方新聞の記者に応募したが、「新聞記者というのはみんな大学を出ている、君のように小学校しか出ていない者は、その資格がない」と言われてしまう。
以後、「高等小学校卒」という学歴は清張にとって乗り越えられない壁となって立ちふさがった。
しかし、そんなことでしょげる清張ではない。第四章では印刷画工としての腕を磨いて、小学校の教員並みの収入を得られるようになり、結婚し、子供も生まれ、自らの力で人生を切り開いていく清張の姿が描かれている。
長女の淑子が生まれた翌年の1939(昭和14)年、清張は大きな賭けに出た。大阪朝日新聞九州支社に直談判して下請け業者として採用されたのだ。その後、嘱託となり、7年目には正社員にまでなった。
だがここでもまた壁が立ちふさがった。社内で出世するのは大学出の記者たちばかり。清張はただ黙々と新聞広告の版下を制作する毎日で、昇給も出世も見込めなかった。そのうえ、高等小学校卒であることを大学出の社員に馬鹿にされ、汚いかっこうをしていたこともあって、「汚れ松」などとあだ名をつけられ、露骨に机を離されたり、そこにいないかのように無視されたりした。
本書によれば、大正時代に大学など高等教育を受けた人は2.2パーセントに過ぎなかったという。しかし、清張が望む、文章に関わる仕事に就くには、高等教育が必須だったのだ。
社会に出てからの清張は学歴を理由に不平等な扱いを受け続けた。この屈辱は清張の骨身に沁みわたった。エリートに対する羨望と恨みと嫉妬。これこそが作家・松本清張の原動力だと主張する人は多い。
著者の酒井も、「食うや食わずの時代を生き抜いた清張は、裕福な家庭で育った有名大学出身の作家たちに激しい対抗心を抱きながら、高度経済成長期を代表する作家となった」と書いている。
私もまた、清張が人気作家になってもなお、死ぬまで小説を書き続けたのは、おそらくこの嫉妬のゆえであろうと思っていた。
第五章では、いよいよ作家としてデビューし、人気作家にのしあがっていくプロセスが明らかにされる。
デビュー作の「西郷札」は直木賞候補だったが、四作目の「ある『小倉日記』伝」で清張は芥川賞を受賞している。しかし、純文学の道には進まなかった。文壇を覆う「いやな感じ」を敏感に察し、文藝春秋の雑誌に歴史小説を発表しながら、作家としての修行を積んでいく過程を著者は丁寧に追っている。
1955(昭和30)年、56(昭和31)年に文芸誌『小説新潮』に掲載された推理小説の「張込み」と「顔」が映画化されたことで、清張は一気にブレイクする。
清張の推理小説には荒唐無稽な大犯罪も巧妙なトリックもない。また、シャーロック・ホームズや明智小五郎といった名探偵も登場しない。
普通に生きている庶民がいつ巻き込まれるかわからないような現実的な事件を下っ端の刑事が地道に追いかけたり、時には事件の被害者、それも女性が事件の真相を突き止めたりしている。
その目線の低さが受けたのだ。
朝日新聞社を辞めて作家として独立した清張の筆はいよいよ冴える。ハンセン病や戦後間もない頃の米兵相手の娼婦など、社会がタブー視する事柄に大上段からでなく、庶民の目線で切り込んだ推理小説「砂の器」、「ゼロの焦点」は大ヒット作となった。
こうした作品の背景には、高等小学校卒の学歴で差別され続けてきた清張の痛恨の思いがあった。
「弱い立場に置かれた人々の苦労を知る松本清張の『緻密な心理描写』と、社会の動きを見越す『鋭い先見性』、次々と新しい作品を生み出す『大胆な行動力』こそが、多くの読者を魅了したのである」と著者は言う。
■長者番付1位になっても、死ぬまで小説を書き続けた理由
第六章では、60代、70代になっても人気を衰えさせることなく、精力的に作品を書き続けた清張の実像にせまっている。
そこに挙げられている、長者番付作家部門の資料を見て、私は驚愕した。
何と清張は1959年から1985まで、27年間も作家の所得で5位以内に入り続けているのだ。しかも、1位が12回、2位が5回、3位が4回! である。
読者は清張の作品が面白かったから、読み続け、読者の期待に応えるために清張は書き続けた。もしもエリートへの嫉妬だけで小説を書き続けていたら、これだけの人気を保つことはできなかっただろう。多くの読者を引き付けた清張作品の魅力は、月並みに言葉になるが、「人間愛」だろう。
どんな境遇に置かれても、そこで必死に生きる人間を、尊さも愚かさもすべてひっくるめて受け入れている清張の度量の大きさが作品に現れ、それが人々の共感を呼んだのだ。
また第六章には見逃すことのできない一節があった。
清張の専属の速記者だった福岡隆が清張に「なぜそんなにたくさん書くのか」と聞いたことがあった。それに対する清張の答えはこうだ。
「日本の文壇では、多作即乱作ときめつける風潮があるんだ。これに対してぼくは挑戦したい。そして自分の力の限界をためしてみるんだ」(『新版 人間・松本清張』)
何と、大きく、力強い言葉だろう。
50歳を過ぎたころから清張は、印刷画工からの無理がたたり、字を書く時に手が震えたり、痛みが生じる書痙を抱えていた。そのため口述筆記で速記者が起こした文章を手直しするという形で小説を書いていた。
午前10時から夜の10時ころまで、2時間ほどの休憩をはさんで仕事は続けられ、一日400字詰め原稿用紙30枚におよんだ。酒を飲めない清張は、気晴らしに外に飲みに行くこともなかった。あまりの仕事量に、ゴーストライターがいるのではないかと噂が立つほどだったという。
松本清張は私が考えるよりもはるかに大きな人間であった。長者番付で一位になるくらい本が売れても、死ぬまで小説を書き続けたのはその大きさ故であったのだと、この本を読んで分かった。
文:緒形圭子
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