◆三宅香帆著作本から抱いた違和感の正体



 三宅香帆の『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(集英社新書)が発売されてから、2年近くになる。本書がいかに多くの発刊部数を数えたか、いかに多くの読者の話題を集めたかは周知の事実であるので、本稿では前書きとしてくどくどしくは書かない。

また、本書の全体像については、すでにさまざまな考察や批評、分析などで触れられているので、その説明についても割愛する。本稿ではあくまでも、本書のさまざまなトピックのなかで、筆者自身がもっとも違和感を覚えた箇所についてのみ語っていく。および、そうした違和感を、三宅の新刊である『考察する若者たち』(PHP新書)にも敷衍させて考えてみたい。



 とはいえ――最初から前提を覆すようで恐縮だが、筆者が『なぜ働いて~』への一番の違和感として言及する箇所は、恐らくは『なぜ働いて~』の根幹をなす部分であり、この言及は限定的なものではなく、ある程度は全体を照射するものにもなるだろう。それは、本書の終盤で登場する、「半身社会」への言及である。そこには、その具体像を問う以前に、自身の理解しえない他者を軽視するような視線が強く感じられ、それゆえに筆者は違和感を覚えざるを得なかった。





 もちろん、『なぜ働いて~』を読んだ中で得たものも大きかった。昭和初期の「円本」や90年代の自己啓発書など、さまざまな時代におけるベストセラーへの言及はいずれも興味深かったし、土居健郎の『「甘え」の構造』など、これまで名前は知りつつも、手に取る機会のなかった本への新たな扉を開く良い機会にもなった。そうした点では、本書を読めたことのたしかな意義は感じている。しかしその意義以上に、違和感は筆者の中で大きかった。



 終盤に至る以前にも、萌芽がなかったわけではない。たとえば、源氏鶏太や海音寺潮五郎、村上龍といった作家たちを小馬鹿にしたようにも感じられる書きぶりや、電通社員過労自殺事件の被害者である高橋まつりさんのツイートを、持説の補強にいささか安易な形で引用していることなどに、そうした他者軽視の萌芽は感じられた。

しかし、中盤まではまだ三宅の筆致はさまざまな情報の整理に主眼を置いた、節度を保ったものではあったため、逐一立ち止まることはしなかった。しかし、終盤の「半身社会」への言及になると、そうした姿勢がより露わになったように思えたのだ。





◆『人生の勝算』への言及



 さて、「半身社会」への言及に至る前に、本書における三宅が恐らくはもっとも問題意識を覚えたに違いない本を挙げよう。2017年に発刊された、前田裕二の『人生の勝算』(幻冬舎)である。当時若手起業家として注目を集めていた前田が自身の半生を振り返りつつ、人生とビジネスの本質を語っていく内容で、2010年代に発刊されたビジネス書のなかでも、もっとも注目を浴びた書籍のひとつといえる。





 『人生の勝算』が本書において集中的に言及されるのは、まさに本書の終盤である。三宅は『人生の勝算』について、「自分の人生のコンパスを自分で決め、努力する」という自己決定および自己責任論、ひいては新自由主義的発想を内面化した書籍であると述べる。また、そのような発想には「ルールを疑う」という姿勢が欠落していると述べたうえで、以下のように言及するのだ。





市場という波にうまく乗ることだけを考え、市場という波のルールを正そうという発想はない人々。それが新自由主義的社会が生み出した赤ん坊だったと言えるかもしれない。(215頁)





 三宅はこれに先立つかたちで、「この前田の価値観は社会がつくり出したものでもあるので、このような発想を持つ個人を批判する気は毛頭ない」と述べるが、この内容に批判がない、というのは少々無理がある。そもそも、べつに批判すること自体に問題があるわけではない。

「このような発想を持つ個人を批判する気はない」のだとしても、前田が一定の影響力を持つ人物であり、また『人生の勝算』が時代を代表するようなベストセラーになったことを踏まえれば、前田の記述には当然責任がともなうのだから、批判することのほうが自然な流れであるからだ(もちろん影響力の多寡に関係なく、文章を書く人間には自分の書いたことの責任が常に問われはするが)。このような迂回には、前田という個人の存在を蔑ろにするような姿勢が感じられ、むしろ不誠実に思われてしまう。



 さらに言えば、前田に対する言及も、果たして妥当だろうか、と思える部分はある。





 ルールを疑うことと、他人ではなく自分の決めた人生を生きることは、けっして両立できないものではないはずなのだ。しかし『人生の勝算』にそのような視点はない。(214頁)





 そうだろうか。『人生の勝算』の第6章では、前田がインドに赴いた際に、足の不自由な、恐らくは恵まれない境遇にある少年に列車の中で出会ったエピソードが語られている。周囲のインド人にぞんざいに扱われる彼の姿を思い返し、前田は次のように心境を語る。





  世界には、二種類の逆境があります。それは、努力や熱量で乗り越えていけるものと、本人の努力だけではどうしようもないもの。



 私がインドで出会った少年は、後者の境遇に置かれていました。



 彼に問題があるのでしょうか。

私は、決してそうではないと考えます。仕組みや構造を作っている側にこそ責任があり、だからこそ、我々には、構造自体を変革する能力が備わっているはずです。(電子版174頁)





 また、この箇所に先立つ形で、前田は非英語圏の人間がグローバルで勝負をするためには、まず「ルールを作る」ことから始める必要があると述べており、ここにも既存のルールを疑う姿勢は見受けられるだろう。『人生の勝算』全体を通してみれば、たしかに前田の主張の根幹は、「市場という波にうまく乗る」ということであるのかもしれない。しかし、前田はそれを絶対視しているわけではなく、市場、ひいては社会という「ルールを疑う」姿勢についての目くばせもあるようには思われる。





◆「半身社会」の提唱から見えるもの



 さて、ここで前田の『人生の勝算』に言及したのは、本書が三宅の価値観ともっとも背反すると思われる本であることと同時に、三宅が提唱する「半身社会」を考える上でも、本書が有用であると考えたからである。



 「半身社会」を提唱する姿勢は、まさに前田の「自分の人生のコンパスを自分で決め、努力する」という姿勢と対になるものであるだろう。というのは、「人生のコンパス」が一人ひとりの価値観によって姿を変えるものであることに対し、「半身社会」はすべての人に等しく適用できるものであるように書かれているからだ。三宅は全身で何かへのコミットメントを続けることが、精神などのバランスを大きく崩すであろうことに触れ、余裕を持った「半身」の取り組みを、労働を中心としたさまざまなことに適用すべきだと述べる。





 つまり私はこう言いたい。



 サラリーマンが徹夜して無理をして資料を仕上げたことを、称揚すること。



 お母さんが日々自分を犠牲にして子育てしていることを、称揚すること。



 高校球児が恋愛せずに日焼け止めも塗らずに野球したことを、称揚すること。



 アイドルが恋人もつくらず常にファンのことだけを考えて仕事したことを、称揚すること。



 クリエイターがストイックに生活全部を投げうって作品をつくることを、称揚すること。



 ――そういった、日本に溢れている、「全身全霊」を信仰する社会を、やめるべきではないだろうか?



 半身こそ理想だ、とみんなで言っていきませんか。(258頁)





 スケールの大きな啓発である。あたかも「サラリーマン」にも「クリエイター」にも「お母さん」にも「高校球児」にも、「半身社会」が万能薬として機能するかのようだ。もっとも、この「半身社会」なるものがじっさいに万能薬の効能を果たすのであれば、まだわからなくはない。しかし、「半身社会」の具体的な効果はおぼろげなままで、その実現のためのステップも、読者に委ねられるだけだ。



 先ほど言及した他者軽視の視線は、たとえばこうした点に見受けられるが、少しページを戻せば、三宅はこのようにも語っている。





会社は労働者に対して「仕事に24時間費やしてほしい」と思うものだし、家庭は配偶者に対して「育児や家事や介護に24時間費やしてほしい」と思うものだし、あるいはゲーム会社は消費者に対して「ゲームに24時間費やしてほしい」と思うものだし、あるいは作家は読者に対して「読書に24時間費やしてほしい」と思うものだ。(255頁)





 このように、他者の心情を安易に断定するような姿勢を筆者は肯定できないのだが(そもそも人間には睡眠や食事や排泄が必要なのだから、何か一つのトピックに24時間費やすことなどは不可能なわけだが)、「全身全霊のコミットメントは、何も考えなくていいから、楽だ」といった断定もふくめ、本書の終盤には特にこうした姿勢が顕著に感じられ、それゆえにより違和感は強まっていく。





◆「半身社会」の提言は本気なのか?



 正直なところ、社会に存在する多様な働き方、またその中にある多様な労働観を深く考慮することなく、十把一絡げに「半身社会」なるものを押しつける三宅よりも、自身の道のりに自負は感じさせつつも、自身の価値観を絶対視することなく、個々人の身の丈に合った「人生のコンパス」を持つことを提唱する前田のほうが、筆者には誠実に思えるのだが、そもそも、三宅自身はなぜ「半身社会」に固執するのか。



 本書においては、全身のコミットメントの危うさが、ビョンチョル・ハンやジョナサン・クレーリーの記述から参照されるが、言ってしまえば「有識者が警鐘を鳴らしているから」以上の理由が、本書からは見えてこないのだ。また、三宅は「半身社会」の意義を説くとともに、読者に対してその実現への協力も呼びかけるが、その点にも疑問はある。





あなたの協力が必要だ。まずはあなたが全身で働かないことが、他人に全身で働くことを望む生き方を防ぐ。あなたが全身の姿勢を称賛しないことが、社会の風潮を変える。本書が提言する社会のあり方は、まだ絵空事だ。しかし少しずつ、あなたが半身で働こうとすれば、現代に半身社会は広がっていく。(265頁)





 つまり、本書における「半身社会」の提言は、あるべき社会の提言であると同時に、個々人の生き方についての提言でもある。では、三宅はその「半身の生き方」を実践しているのだろうか。「あとがき」における、「『全身全霊で働くことをやめよう』と書きました。でもこれはたぶん、人に言っているように見えて、自分自身に語りかけているんです」「仕事に人生を奪われたら、だめだ、と思います。まあ、仕事、熱中しちゃうんですけどね」といった言及から、そのように解釈することは難しいだろう。

こうした記述のみで三宅が「半身の生き方」を実践していないとは断定しないが、いずれにせよ、本書で言及される「半身の生き方」は自身の身体から導き出したもの、という感触はきわめて薄いものに留まっている。



 「半身の生き方」を自身で長年にわたって実践し、それによって何かしらの知見を得た人間が「半身の生き方」を提示するというのであれば、(その内容に妥当性や汎用性があるのかはさておき)理解できる。というのは、なにも資格の有無の問題だけではない。生きて生活をするということは、理屈だけで割り切れるものではなく、理想と現実には、不可避的にギャップが入り込むからだ。いくら理想的な生き方を提示したとしても、そこに人の不合理な身体が介在する以上は、どこかしらに綻びが出るのが常である。むしろ、何かしらの実践を行い、そこで生じたギャップを視野に入れて、再び考察を重ねていくことが、論理のさらなる強靭化、言い換えれば「生きたもの」としての深化へとつながるのではないだろうか。本書における「半身社会」は、具体性が示されないことに加え、そうした実践感覚の希薄さからも、より画餅という感触が強まったことは否定できない。





◆『考察する若者たち』はどんな内容なのか?



 そのような他者への軽視や、身体感覚の乏しさは、三宅の新刊『考察する若者たち』では、より顕著に感じられる。



 本書はまず、「映画やドラマ、漫画の解釈を解説する考察記事・動画が流行している」という前提にたち、その流行の根源にあるものは若者たちの「報われたい」という思いであることを指摘する。





ベストセラー作家・三宅香帆の「存在の耐えられない〝あやふやさ...の画像はこちら >>



 では「考察」と「報われる」はどうリンクするのか。三宅の説明では、考察とは作者が作品の中に忍ばせた「正解」を当てることであり、その正解を得ることで「報われる」という感情が生起するのだという。いっぽう、「考察」と対比させる形で示されるのが旧来の「批評」で、そこには「正解」はなく、それゆえに、批評から報われるという感覚を得ることは難しいのだという。



 そして三宅は、この「報われたい」という図式は、令和日本において流行となっているさまざまな作品や思想、また生活様式などに当てはまるのだと続ける。以降は「萌えから推しへ」「やりがいから成長へ」「ググるからジピるへ」など、平成以前に流行していた概念と、令和に流行している概念を各章において対比させ、そのような変化が生まれている深層へと迫っていく。



 「プラットフォーム」「界隈」「ジピる」など、出てくる言葉や概念やそれぞれ興味深いものの、本書においてまず気になるのは、論拠の乏しさである。序盤からしてそれは顕著だ。まずデータとしてYouTubeにおける、「通常動画」と「ショート動画」にわけての感想動画と考察動画のここ20年ほどの投稿件数の推移が示されるのだが、そのグラフを見る限り、考察動画は「ショート動画」においては感想動画を上回るようになったものの、「通常動画」においては、なおも感想動画のほうが優位を維持している。「『ただの感想』よりも『考察』のほうが、いまや人気なのです」という三宅の断言がここに付与されるが、それはいささか飛躍しているように感じられる。



 また、第一章の末尾では、「批評の時代ではない。考察の時代なのだ」とも断言されるが、かりに考察が流行しているとしても、それは批評が時代の主流から外れたということに直でつながるのか。そもそも、平成以前には批評が時代の主流にあったと言えるのか。前提の説明や論証が不十分なままに断言が続くので、読む側としてはいくつもの疑問を頭に浮かべたまま、ページをめくらざるを得なくなる。



 そしてページをめくり続け、最終ページまで到達しても、「論証が不十分」という印象は変化することはなかった。そして、本書には言葉の定義や範囲においても、さまざまな問題があるように思った。かつこうした点は、先ほど述べた「他者への軽視」とも密接にリンクしている。以下はそれについて書く。





◆全体に通底する「あやふやさ」



 まず「報われる」という言葉の範囲の広さ、言い換えればあやふやさである。この言葉は、一般的なニュアンスとしては「努力や苦労に対して、相応の成果を得る」といったところだろう。三宅はこの言葉を軸に、令和とそれ以前の若者の心理を分析する。たとえば、「萌え」と「推し」の場合は、前者は瞬間的な感情に過ぎず、報われるポイントはないが、後者はその対象を応援するという労力を費やし、たとえば、対象となるアイドルがより上の位置に来た際に、報われるポイントがあるのだと語る。



 また、現代は努力が報われにくい社会だからこそ、より個々人の能力が発揮できる世界へと主人公が生まれ変わる「転生」ものや、そもそも社会に問題があり、努力が報われる状況になるために、自分が取り込まれている社会を抜け出すことを示唆する「陰謀論」が流行するのだと語る。



 こうした例においては、「報われる」という言葉は一貫した意味を持っているように思えるが、後半になると、その範囲が拡大する。たとえば、TikTokの流行について。TikTokで動画を見ても「全然記憶に残らない」のに、なぜ若者は見てしまうのか。ここには「刺激」というより受け取りやすい「報われ」があるのだと三宅は説明するのだが、「刺激」が「報われ」に入るのだとすれば、他章の議論にもほころびが出てきてしまう。



 たとえば、「やりがいから成長へ」では、「やりがい」よりも「成長」のほうが「報われやすい」という理由で、若者たちの仕事に求めるものが後者にシフトしたのだと語られるが、これに対しては「いや、やりがいによる心理的な刺激はかけがえのないもので、やりがいでも人は十分に報われるのだ」などということもできるし、さかのぼって、あくまでも瞬間的な欲求に過ぎないとされる「萌え」も、「いや、人は萌えから一瞬の刺激を得ることで、推しに負けず劣らず報われるのだ」などともいうことはできる。つまりここでは、「報われ」という言葉の範囲をいたずらに広げることで、全体の論理から緻密さが奪われてしまっているのだ。



 そのような範囲のあやふやさは、本書のテーマそのものにも言える。本書には「若者たち」というタイトルがついているが、読み進めていくと、三宅が語る対象は若い世代に限った話ではないことが分かる。とりわけ、「萌えから推しへ」「自己啓発から陰謀論へ」は若い世代に特化した分析とはまったく言えず、その範囲は「令和を生きる私たち現代人」くらいのゆるいものである。本の中では「若者世代を中心に」「世代に関係なく」などという言葉も出てくるので、あえて間口を広げるような選択の産物であるのかもしれないが、言葉の定義、および分析対象のあやふやさが、分析そのものを大味なものに留まらせている側面があることは否定できない。



 「あやふやさ」という言葉につなげると、そもそも本書で語られる「若者像」そのものもだいぶあやふやである。繰り返しになるが、まえがきにおいては、「身体で実感できる素朴な感情や感覚だけで満足できなくなっている」「『最適解』にこだわる」(※)などと若者たちの特色が語られるが、それらの明確な根拠はない。あくまでも「なんとなくそう思われる」くらいの前提のもとで、話が進むこととなる。





(※)なおこの「最適解」という言葉は、漫画『スキップとローファー』に出てくる台詞であるが、本書では『スキップとローファー』や『ようこそ!FACT(東京S区第二支部)へ』といったフィクション作品における若者像が、現実における若者の姿とあたかも同一であるかのように語られており、その点にも問題がある。



 加えて、本書では現代の若者論として、土井隆義の「努力の価値そのものは認めているが、自分は努力して成功できるような資質はそもそも欠落していると考えている」といった論や、古屋星斗の「横並びの成長欲求を求める」といった論が参照されるが、三宅による独自のリサーチなどはなく、さらには、先人たちの論について、自分なりに再検証するような姿勢も見受けられない。なにも土井や古屋の論が間違っていると言いたいわけではない。自身での詳細なリサーチなどはないまま、説得力を他者の研究に丸投げするようなことへの根本的な疑問がぬぐえないのだ。





◆話題の「倍速視聴」を扱った新書と比べると?

 



 少し話を変えるが、本書と親和性の強い書籍として挙げられるのは、ライターの稲田豊史による『映画を早送りで観る人たち』(光文社新書)である(じっさい、『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』において三宅は本書を引用し、「読書」「情報」の定義に『早送り』の法則性を援用している。また『考察する若者たち』における議論も、少なからず『早送り』の議論を前提としていることが見受けられる)。





  『映画を早送りで~』はタイトルの通り、若者を中心に、いわゆる倍速視聴を行う人々への考察を行った書籍だが、率直に言って、本書は『考察する若者たち』よりも優れている。それは『映画を早送りで~』が、若者たちの個別の身体や生理に肉薄し、より解像度の高い「若者像」を提示していることに起因する。稲田は本書において、倍速視聴経験のある若者たちにアンケートやグループインタビュー、個別のヒアリングなどを行い、彼らの「倍速」の陰にある欲望を浮き彫りにしていく。



 加えて、アニメーション監督や脚本家など作り手、また若い世代を代表するインフルエンサーなどにも綿密な取材を行い、それゆえに本書における若者像は、一定以上の解像度の高さが担保されている。また、倍速視聴に対して当初は嫌悪感を隠せなかった稲田が、若者たちのさまざまな背景を知る中で、しだいに自分の認識を更新していく過程に、彼の誠実さを感じられもした。



 いっぽうで『考察する若者たち』では、最初から若者たちは「身体で実感できる素朴な感情や感覚だけで満足できなくなっている」「『最適解』にこだわる」という前提のもとで語られ、その妥当性についての検証や、個々の若者の内実については、ついに最後まで触れられることはない。もちろん、この違いを「ライター」と「文芸評論家」というスタイルの違いとして片づけることも可能だが、結果的にそうした検証や個々の若者への肉薄がないことで、「若者像」は最後までぼんやりとした輪郭しか結ぶことはなく、結論としても大味な、説得力の薄いものに留まってしまうのだ。



 「後悔するとしても、自分の欲望や感動を探して、自分なりの解釈を、批評を、探したほうがいい」「解きたい問いや、好きなものを、自分から探したほうがいい」――。本書の結論として示される提言は、上記のようなものである。三宅のこれらの言葉そのものへの異論はない。しかし、独自性や新規性をこれらの言葉から感じる向きも少ないだろう。中学校や高校の教育の場でも常に言われるような、至極当たり前の教訓に過ぎないからだ。もっとも、当たり前の教訓に留まるのは、この場合必然ともいえる。



 ふたたび繰り返すが、本書で語られる「若者像」は、範囲を厳密に定義しない極めて大雑把なものであり、そのような対象に向けた言葉としては、個別性や解像度の高い提言ではなく、当たり前の、汎用性の高い教訓に留まらざるを得ないからだ。それは振り返れば、労働者一人ひとりの内実へと踏み込むことのない『なぜ働いて~』の、「働きながら本を読むコツ」にも通底している(さらにいえば、こうした「自分の感情/欲望を重視すべき」といった結論は三宅の『娘が母を殺すには?』(PLANETS)や『「好き」を言語化する技術』(ディスカヴァー携書)などにも見られる結論であり、そこに作家としての一貫性を見出すことももちろん可能だが、筆者はむしろ、想定される読者層にそれぞれ違いがあるにもかかわらず、同じような結論を繰り返すことに読者への軽視を感じざるを得なかった)。



 「働いていると本が読めない」「若者たちは批評よりも考察に流れる」といった指摘は、大雑把な見取り図としては正しいのかもしれない。同時に、そのような見取り図をいち早く書籍というかたちで提示することにも、意義がないとはいえないだろう。しかし、人の個別性を重視せず、かつ論理にもさまざまな飛躍のあるままで、「『半身』社会こそが、私たちが望むべき新しい生き方なのである」「若い世代が『最適化』にこれだけ注力している時代である」などと断定する三宅の姿勢には、やはり筆者は危うさを覚える。



 本を作るうえでのマーケティング性や時間の制約などを考慮すれば、重箱の隅をつつくような指摘が、あまり意味を持たないケースも少なくはないだろう。しかし、筆者がここまで述べてきたことは、「他者への敬意」という、人間が生きるうえでの根幹をなす部分が軽視されていることへの違和感であり、それゆえに、筆者はこのような文章を書かざるを得なかった。





文:若林良





 

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