早稲田大学在学中にAV女優「渡辺まお」としてデビューし、人気を博すも大学卒業とともに現役を引退。その後、文筆家「神野藍」として活動し、初著書『私をほどく~ AV女優「渡辺まお」回顧録~』を上梓した。

いったい自分は何者なのか? 「私」という存在を裸にするために、神野は言葉を紡ぎ続ける。連載「揺蕩と愛」#23は「17歳になる前日にペットショップで出会ったオスのシェパード。私に彼を弔う資格は、今はない…」



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【実家の犬が死んだ】



 その日はいつもと変わらずに進んでいた。数分おきに鳴っている仕事のチャットアプリの通知を消化しながら、19時半に予定されていた友人とのご飯に向けて丁寧に睫毛にマスカラを塗っていた。ふと、先ほどまでと違うアプリの通知音が少しずつ感覚を空けて耳に届いた。友人だったらもう少しテンポ良く鳴り響くはず。パッと思いつく中で変に間が空く人物は、私の中では一人だけだった。いつも通りの近況報告だろうと、大して気にも留めず右目から左目へと作業を移していく。真っ黒い艶々した液体がダマにならないように私の神経は手元に集中しながらも、週末にやり取りしたばかりなのにと妙なざらつきを感じていた。一通り終えたところでずらっと並んだ通知に目を向けると、私の嫌なほど当たる勘は的中していた。





 実家の犬が死んだらしい。いや、死んだ。



 自分の目で確かめない限りは素直に物事を信じたくはないが、届いた内容を読む限りは本当にいなくなってしまったようだ。数日前に「ヘルニアになったかも」という連絡はあの人なりに気を遣ってのことだったのだろう。そういえば、久しぶりに実家にいる夢を見たのもそのときだ。



 がらんどうの部屋に私と飼っていた犬が一緒にいて、私に向かって「早く遊んでくれ」と言わんばかりに飛びかかってきていた。じゃれつきあっていると、どこからともなく現れた別の犬と薄明かりの方に消えていった。目が覚めたとき、どこか落ち着かない気持ちになりながらも、geminiに読み込ませた夢占いの結果が思ったより悪くなかったので胸を撫で下ろした記憶がある。





 私には泣く資格も、この手で弔う資格もない。私がかろうじて同じ空間にいたのは1年半で、上京してからの2年は数日間顔を合わせた程度。そして私の手で生み出した6年間の空白は本来持っていたはずの資格を奪うのに十分すぎる理由だ。冷たい液晶画面の先で涙を枯らしている人たちを思い浮かべると、私の中から溢れそうになっていた生ぬるい液体は途中で止まった。きっと私が「悲しい」と呟く行為もそれに準ずる何かも、心のどこかで近くで世話をし看取った人間たちの感情を逆撫でするような気がして、ぐっと身体の中に留めた。ふと時計に目をやると、19:00を指していて、気持ちに蓋をするように耳をイヤフォンで塞ぎ、駅への道を急いだ。





【まだあの場所には帰れない】



 帰り道、届いていたメッセージを見返していた。「今ごろお星様になっているから空を見上げてね」と言われても、私の頭上に広がるのは灰色の厚い雲で、輝く欠片の一つすら見つけられなかった。やはり、東京には空が無いらしい。



 ふと、頬に液体が伝った。出血してしまいそうなほど唇を噛み締めても止めようにも止められず、足元がふらつきながら前に進むしかなかった。ようやく辿り着いた玄関で崩れ落ちる私を小さな家族が心配そうに覗き込んできた。ふんわりと香る乳臭さと獣臭さが鼻腔をくすぐる。抱きしめた指先から伝わってくる温かさは、今ここに存在する家族のもののはずなのに、私を遠い記憶に連れ出した。





 17歳になる前日に、ペットショップで出会ったオスのシェパードを飼いたいと強請ったのは私だった。「私の誕生日の前日に出会うなんて運命だよ」と説き伏せて、まだ小さい身体だった彼を抱きしめて帰った。雪が降りしきる街の小さな箱の中で、私たちはお互いの役割を果たす同士だった。私は家族の調和を守り、彼は家を守っていた。

けれど、私にとってそれ以上の存在だと思い知ったのは、皮肉なことに今になってからだった。



 大型犬の寿命が短いのは嫌というほど知っていたけれど、私の中でたてた誓いを現実として形にするまでは、まだあの場所には帰れない。原稿の上でしか弔いができない未熟さと身勝手さを許してほしい。いつか大好きだった真っ赤なゴム製のボールと、食べきれないほどのジャーキーを抱えて、ちゃんとさよならを言いに行くから、それまでどうか安らかに眠っていてほしい。





文:神野藍



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