子供の頃から雑誌が好きで、編集者・ライターとして数々の雑誌の現場を見てきた新保信長さんが、昭和~平成のさまざまな雑誌について、個人的体験と時代の変遷を絡めて綴る連載エッセイ。一世を風靡した名雑誌から、「こんな雑誌があったのか!?」というユニーク雑誌まで、雑誌というメディアの面白さをたっぷりお届け!「体験的雑誌クロニクル」【34冊目】「大人の同人誌『コラムニスト』と『レポ』」をどうぞ。
【34冊目】大人の同人誌『コラムニスト』と『レポ』
出版不況といわれるなかで、「文学フリマ」に代表されるミニコミ市場は盛況である。近年はZINEとかリトルプレスとかいろいろシャレた言い方があるけれど、自分としては「同人誌」が一番しっくりくる。同好の士が集まって作る本、それが同人誌だ。
私が初めて同人誌を作ったのは高校2年のとき。友人数名と宮崎駿関連作品(まだジブリは存在しない)を中心としたアニメ特集本を作り、即売会で売った。部数は100とか200とか、それぐらいだったと思う。今振り返れば若気の至り炸裂で恥ずかしいが、自分の作った本が売れたときの喜びは大きかった。それが現在の編集という仕事の原点であることは間違いない。
大学生のときにも同人誌は何冊か作ったが、編集・ライターを生業とするようになってからは、いわゆる商業誌の仕事しかしていない。正確に言うと、青木俊直氏企画のファンジン『大好き!バイトくん』に寄稿したのと、原稿料が出ないことで知られる特殊マンガ誌『アックス』(青林工藝舎)で作家インタビューを担当したことがあるが、それは仕事ではなく趣味とかボランティアの類である。
とはいえ、私が仕事をしてきた雑誌の中には、商業誌でありながら同人誌的なノリで作られるものもあった。そのひとつが『コラムニスト』(東京三世社)だ。
創刊は1991年8月。編集長は、風俗業界では知らぬ者なしの「なめだるま親方」こと島本慶氏である。近年は熟年バンド「ペーソス」のボーカルとしてのほうが有名かもしれないが、当時まだギリギリ30代だった島本氏が、かねてより念願のコラム雑誌を立ち上げた。実際は、コラムというより初期の『別冊宝島』のようなノンフィクション系ワンテーママガジン(判型も同じA5判)で、創刊号のテーマは「SEXトリックスター」。売れ行きが芳しくない雑誌がカンフル剤的にやりがちなSEX特集を、いきなり創刊号でぶちかますのはスタートダッシュを狙ったのか、それとも親しみあるテーマだからか。
執筆陣は、小浜逸郎、末井昭、フェデリコ・カルパッチョ、木村和久、板橋雅弘、館淳一、上杉清文、谷村志穂、高杉弾、本橋信宏、三尋狂人、押切伸一、西原理恵子ほか。おおむね島本氏の人脈で集めたメンバーであり、板橋氏は副編集長も務めている。三尋狂人とは、2018年に亡くなったコラムニスト・勝谷誠彦氏のペンネームだ。
当時の私は社員編集者だったため、この創刊号には関わっていない。ただ、【14冊目】で書いたとおり、『SPY』という雑誌で板橋氏の連載を担当し、島本氏や末井氏にも何度か原稿依頼していた縁もあったので、同誌1991年10月号の情報コラムで『コラムニスト』編集長としての島本氏のインタビューを掲載した。
そんな折、『SPY』編集部にオウム真理教から売り込みの電話がかかってきた。すでに犯罪的カルト教団として危険視されてはいたものの、決定的な証拠はない。
しかし、その時点で『SPY』は休刊が決まっていた。一方、『コラムニスト』第2号のテーマは「新宗教」だという。そこで、オウムの人に「『コラムニスト』という雑誌があるんですが、そちらでどうですか?」と聞いたら「それでもいい」と言うし、島本氏もOKということで、オウム信者へのインタビューを中心とした記事を書くことになったのである。
オウム真理教杉並道場での取材は、率直に言って面白かった。男女3人(そのうち一人は幹部クラスの大内利裕)の話を聞いたが、麻原彰晃への心酔ぶりをうっとりと語ってくれて、カルトにハマる人の特徴がよくわかる。のちに幸福の科学広報担当者を取材したこともあるが、どちらかといえばオウム信者のほうが幸せそうではあった。
出された飲み物には口をつけず、「駅まで送ります」と車に乗せられたときはちょっとドキドキしたものの、無事帰還。が、やはりそのまますんなりとは終わらなかった。
原稿を書き上げて内容チェックのため先方に送ったら、連絡が来た。当時はメールなんてないので電話である。
どの部分を修正すればいいかというレベルではなく、とにかくダメの一点張りで原稿は全ボツに。が、ページに穴を開けるわけにもいかないので、急遽別人が代打として(取材内容を一切使わずに)新聞・雑誌等の資料をもとにオウム真理教とマスコミの関係について書いたという体で、新たな原稿を超速で仕上げた。結果的には、元の原稿よりネガティブなものになったが、それはしょうがない。
その第2号「神人類と信人類たち」の目玉企画は、植島啓司と黒木香の対談(司会:上杉弾)だ。西原純一郎「作家の宗教観」には、水木しげる、楳図かずお、桑田二郎、代々木忠が登場している。執筆陣には有田芳生、伴田良輔、南伸坊、ナンシー関らの名前もあった。
『SPY』休刊を機にフリーとなった私は、第3号「事件の味覚」から編集も手伝うことになる。編集実務に関しては島本氏や板橋氏より私のほうが手慣れているので、結構いろんな作業をやった。DTPも普及していない時代、レイアウトは紙である。
テーマは基本的に島本氏が決めていたが、誰に原稿やインタビューを依頼するかについては私から提案もした。たとえば、4号「ハートofギャンブル」に登場した赤坂憲雄、峯正澄は私の担当分だ。峯氏の原稿には、いしいひさいち氏にイラストを描いてもらった。同号では自分も「ボク受かる人、キミ落ちる人」と題して受験レースをギャンブルに見立てた原稿を書いている。
しかし、5号「ワールドワイドな日本人」(1992年5月発行)にて、残念ながら同誌は休刊となる。編集後記ならぬ「編集後談」(編集部座談会)では次号のテーマも語られているが、形になることはなかった。3号から始まった編集後談には私も参加しているが、今読むとずいぶん好き勝手なことを言っている。それは私だけでなく、島本氏や板橋氏も同様で、そのアバウトな雰囲気そのままの手作り感あふれる雑誌ではあった。
そしてもうひとつ、より同人誌的だったのが『レポ』(ランブリン)である。ライターの北尾トロ氏が2010年9月に立ち上げた季刊のノンフィクション専門誌。
どこで知ったか忘れたが、創刊の情報を得て即、定期購読を申し込んだ。届いた創刊号は、表紙に大書された北尾氏のエッセイ(?)から始まる。表紙の文章がそのまま中面へとつながる斬新な構成。記事の合間合間にも「DJ」と称して北尾氏の文章が挟まる。そこには、『レポ』創刊の経緯や意図、創刊号に執筆した人たちとの出会い、編集作業の進捗などが現在進行形で綴られている。
それを読んでいるだけでも雑誌作りのダイナミズムが伝わってくるが、本編の記事もユニークだ。3人の伝説的M男性の証言を通して戦後SM史をひもとく連載「そのとき歴史が鞭打たれた」(早川舞)に始まり、熱烈かつ異様な手紙の内容に呆れる「奥崎謙三のラブレター」(北尾トロ)、知られざる“国連のお仕事”を綴った「国連で働いてみました!」(川内有緒)と続く序盤だけでも読み応え十分。のちに『時給はいつも最低賃金、これって私のせいですか? 国会議員に聞いてみた。
北尾氏は編集のプロではないが、スタッフに本職の編集者がいて、アートディレクターもいるので、誌面のクオリティは思ったより高い。巻末に掲げられた〈「レポ」は編集人・北尾トロから読者への超分厚い手紙です!〉〈読んでも人生の役に立たないノンフィクションが満載です!〉〈ジャーナリスト魂とは無縁の、マニアックな視点、とぼけた風味、イイ腰の引け具合、を大事にします!〉という指針どおりの内容で、私のストライクゾーンど真ん中でもあった。
これはライターとしていっちょ嚙みするしかない。さっそく北尾氏に連絡を取り、いくつかの企画をプレゼンした。が、イマイチ琴線に触れなかったようで、逆に提案されたのが「我が名は武将」という企画だった。「信長(私)」が「秀吉」や「家康」など武将と同じ名前の人に会いに行き、武将の名前を付けられた男の人生を語り合う。一瞬、「そんな無茶な!」「需要ある?」と思ったものの、ここで引き下がっては信長がすたる。「やってみましょう」ということで、第3号から連載をスタートした。
最初は、その名もズバリ「秀吉」というバンドのボーカル&ギター・柿澤秀吉氏。小学生の頃、社会の授業で秀吉が出てきて、しばらく「サル」と呼ばれていたというエピソードは気の毒だった。その後、光秀、信長、家康、家康、政宗を取材したところでネタが尽きて、連載は6回で終了。が、実は連載2回目の時点で結構ピンチだったのだ。
初回が載った3号は2011年3月15日発行。そう、東日本大震災の直後である。季刊なので次号が出るのは6月だが、締め切りは5月上旬。となると4月中には取材を済ませなければならない。都合よく都内や西日本に武将がいればいいが、東日本だと当分は取材どころじゃないはず。結果的には被害の少なかった北海道の光秀に取材できたのだが、あのときは『SPA!』の企画で各国大使館に取材する予定だったのが事実上不可能になったりもして、ただでさえ原発事故で不安なところに追い打ちで大変だった。
しかし、そんな不安と焦りを少し軽減してくれたのも『レポ』だった。『レポ』には、執筆者有志が発送作業を手伝う風習があり、震災直後の3号発送時も、編集部(北尾氏の事務所)に結構な人数が集まった。みんな誰かと話したかったというか、不安を分かち合いたかったのだろう。作業の手を動かしながら、あれこれと会話を交わす。当然、地震の話題は出るが、どうでもいい話も出るわけで、それが救いになった部分はある。
その後、12号から「乱筆乱文にて失礼いたします。」という連載を始めるのだが、それは『字が汚い!』というタイトルで単行本になり、文庫にもなっているのでそちらを読んでいただくとして、『レポ』に関してもうひとつ触れておきたいのは「笑う本棚大賞」だ。
7号の特集(5号までは特集なしで6号で初めて「山田うどん」特集を組んだ)「オモロおかしいノンフィクションが死にそうだ!!」で発表された新たな賞。〈『季刊レポ』が、2012年に発表された、数多あるノンフィクションの中から、面白くて役に立たないノンフィクション作品を勝手に選出、贈呈する賞〉だ。北尾氏、えのきどいちろう氏、そしてなぜか私も選考委員として名を連ねている。当初のネーミングは、由緒ある大宅賞(大宅壮一ノンフィクション賞)をもじって「犬宅賞(仮)」とされていたが、10号での授賞作発表時に「笑う本棚大賞」と改められた。
名前の由来は、2012年10月から11月にかけて三省堂書店神保町本店と『レポ』と『ダ・ヴィンチ』が共同で開催した「笑う本棚」フェアである。『レポ』執筆者が選んだ笑える本約90冊をフェアとして展開した。そのうちの一冊、沢田佳久『醤油鯛』(アストラ)が、栄えある第1回笑う本棚大賞に選ばれたのだ。
手前味噌ながら、同書をフェアの選書に挙げたのは私である。【30冊目】でも紹介したが、醤油鯛とは魚の形のプラスチックの醤油入れのこと。それを昆虫学者の沢田氏が収集、分類、研究したのが『醤油鯛』である。内容的に「面白く役に立たない」点では賞の趣旨にピッタリ。北尾氏、えのきど氏も絶賛、フェアでの売り上げもダントツ1位ということで、満場一致の授賞であった。
『コラムニスト』『レポ』ともに安いながらも原稿料は出ていたので、定義的な意味での同人誌とは違う。とはいえ、特に『レポ』は交通費や取材先への謝礼も自腹で完全に赤字だったが、仕事として面白かった。毎月の発送作業(雑誌が出ない月も「ちびレポ」の発送がある)も部活みたいで楽しかった。作り手が楽しくても読者が楽しくなければ意味ないが、その楽しさは読者にも伝わったのではないかと思う。
『レポ』は20号にて幕を閉じたが、そこから生まれた単行本がいくつもある。前述の拙著『字が汚い!』もそうだし、北尾トロ・えのきどいちろう『愛の山田うどん』、和田靜香『コンビニ店員は見たっ!』、川内有緒『パリの国連で夢を食う。』、杉江松恋『ある日うっかりPTA』などもそうだ。私が把握できてないだけで、ほかにもまだあるだろう。『レポ』でライターデビューした人も何人かいる。
終刊号で北尾氏は〈始まったものはいつか終わる〉と記した。個人出版に近い形なんだから、それはそうだ。が、その終刊号で「新連載大特集」と銘打って19本もの新連載第1回を載せてしまうのが、どうかしている。そういう芸当ができるのも、ここで書きたいと思う人が大勢いればこそ。一応「2回目以降の連載媒体求む」という趣旨だったが、結果はどうだったのか。ともあれ、出版界にいろんな種をまいた雑誌であった。
文:新保信長
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