何が起きるか予測がつかない。これまでのやり方が通用しない。
第25回 家が残してくれるもの『時の家』鳥山まこと (講談社)
暖かくなったので、ふと思い立って、散歩のついでに隣の市まで足を伸ばし、昔住んでいた家のあたりまで行ってみた。そこは最寄り駅から徒歩で15分ほど歩いた住宅地で、かつては広い敷地を持つ農家が多かった。
私が小学校6年生の時に、父はバス通り沿いの一画に建つ建売り住宅を買って、マイホームを手に入れたわけなのだが、初めて家を見に行った時、憧れていた居間がないことにひどくがっかりしたのを覚えている。家は3DKで、一階にダイニングキッチンと和室、二階が和室二部屋という間取りだった。私はその家で、大学4年の途中までの約10年間を過ごした。
今住んでいるマンションから徒歩でも行ける距離なので、行こうと思えばいつでも行けたのだが、わざわざ昔の家を見に行く必要もなく、気がつけば、車でたまたまその家の前を通りかかってから、10年以上が経っていた。
かつて私の家があった場所には、敷地いっぱいに、レンガ組みを模した今風の三階建ての家が建てられていた。変わったのは我が家だけでなく、隣の家もまた同じような三階建てになっていた。
一画に建っている四軒のうち、いちばんバス通りに近い家だけ改築されずに、三角の屋根、二階のベランダ、門など、昔の姿をとどめてくれていた。
10年以上思い出しもしなかった家なのに、その家が跡形もなく、アジサイや枇杷の木を植えていた庭のスペースすら消えていたことに、私は寂しさを覚えた。
2025年下半期の芥川賞を受賞した『時の家』は一軒の家が主人公になっている。
家が建っている場所は固有名詞を出していないが、恐らく兵庫県のどこかだろう。その土地は大震災の被害にあっていて、記述から、それが阪神・淡路大震災であることが分かる。
兵庫県のとある市の住宅街に建っている家は現在住む人はおらず、間もなく解体されようとしている。その家に一人の青年が忍び込む。物取りではない。彼はかつてこの家の近所に住んでいて、この家に強い執着を持っている。青年は記憶をとどめるかのように、忍び込んだ家の中で、籐が巻きつけられた柱や西面の白い漆喰の壁、北側の小部屋の空間、寝室とトイレの間の仕切り壁に入った亀裂、洗面台のタイル、戸棚の引き出しや引き戸の取手などをスケッチブックに鉛筆で写し取っていく。
一枚一枚仕上がっていくスケッチの細部から、その家を設計し、そこに住んだ藪さん、彼の後に住人となった緑、彼女の後に住人となった圭といった人物が想起される。
例えば、籐巻の柱。
柱は青年が手を伸ばせば届く高さ辺りまで籐が巻き上げられ、つるりとした光沢を纏っていた。自分の小指よりも細い数百周も巻かれた籐を下から漏れなく一つひとつ描き進める。巻かれる一段一段が違った。そのことが彼には面白かった。籐の艶や黄ばみ、節の黒ずみ、なだらかな変色、模様のようで異なるそれらを描いてゆく。重ねてゆくと体の重みが遠ざかってゆく。……(『時の家』)
実はこの柱の籐は、藪さんをはじめ、大工、現場監督、左官屋、石屋……ともに家を造り上げた人たちの手によって、下から順番に入れ替わり巻きつけられたのだった。その事実を青年は知らないが、柱をスケッチしながら、籐巻に多くの手が関わっていることを感じている。
青年は子供の頃、藪さんの家で、藪さんの横で、スケッチを楽しんだ。絵は好きだったが、美大には進まず、絵とは無関係の仕事に就き、35歳になった彼は世間の平均よりは高い給料をもらい、生活は安定していた。けれど、妻も子もおらず、夢中になれるものもなく、生活は無彩色だった。
その茫漠さが青年の足を藪さんの家へと向かわせたのだが、藪さんはとうの昔に亡くなっていて、家は取り壊される寸前だった。
青年の柱のスケッチから、時間は過去へと飛び、柱に籐を巻いている藪さん、柱に噛みつく愛犬と格闘している緑の姿が描かれる。漆喰壁のスケッチからは、壁の起伏に触れて、夫との関係を見つめ直す圭が立ち現れる。
三人の住人たちはお互いを知らないけれど、家が彼らをつないでいる。
『時の家』の著者である鳥山まことは建築士で、設備設計を専門にしているというが、小説を書き始めた理由をこのように語っている。
「一日の時間の大半を仕事に費やし、それを何十年も続けていって、五十、六十になって辿り着く先が、日本で有数の設計者であるという評価だとして、自分はそれで満足できるのかと自問自答したときに、どこかで納得できなかった」(『文藝春秋』2026年3月号)
建築以外に人生の軸を持とうと、いろいろなことを試した結果、小説に行きついた。エンターよりも純文学に興味が行き、芥川賞受賞作を読むうちに面白さにはまり、自分も芥川賞をとるような作品を書きたいと思い書き始めたのだそうだ。
仕事をしながら小説を書いて、文芸誌の新人賞に応募し続け、7年目の2023年、「あるもの」で三田文学新人賞を受賞。その3年後、見事芥川賞を受賞したのだった。
純文学にこだわっているところが面白い。純文学の定義は「純粋な芸術的感興を唯一の必然として書かれた小説」とされ、大衆文学は「読者の慰安を目的として興味本位で書かれる小説」などとされている。その違いは時代の変遷とともに曖昧になり、今そんなことを意識して小説を読んでいる人は少ないと思うが、芥川賞と直木賞はそこに明確な線を引く。
実は私もかつて純文学作家を目指していたことがあって、純文学についてはそれなりの考えを持っている。
例えば、小学校6年生の時のクラスを思い浮かべてほしい。飛びぬけてかわいかったり、勉強ができたり、運動ができた子のことはよく覚えているだろう。一方とりたてて目立った取柄のなかったAちゃんのことは、写真を見ても「こんな子いたっけ?」と首をかしげるに違いない。
Aちゃんは同窓会に一度も出てこない。誰も消息を知らない。小学校卒業後も目立たない存在であり続けるのだが、実はAちゃんはとても充実した人生を送っていた。亡くなる時にAちゃんはきっと「何ていい人生だったのだろう」と、満足して目を閉じるだろう。
その誰も知らないAちゃんの人生の充実を描くのが、描けるのが、純文学であると私は考えている。
鳥山まことはそれを人間ではなく、家を主人公にして、やってのけた。
見た目はごくごく平凡な家。
「家っていうのは時の幹やから」
藪さんのこの思いは、家の中の柱に、天井に、タイルに、扉の取手に残されていた。
だからこそ、緑は初めてこの家を内見した時、無機質な高級マンションとは異なる柔らかさを感じて、自分が住む場所をその家に定めたのだし、圭は勾配天井のリビングに心が馴染むような感覚を抱き、ここに長くいたいと思ったのだ。
家は三人の住人たちのそれぞれの思いの痕跡をあちこちにとどめていた。そんなものは普通なら誰も目に止めることはない。家が壊されれば跡形もなく消え去るし、たとえ家が存続したとしても気づかれるものではない。
ところが、その痕跡を、それとは知らずに青年がスケッチにして残していたのである。
この小説の講評の多くは著者の建築家としての視点を高く評価しているが、建築家だからと言って、書ける小説ではない。私が小説の中に強く感じたのは、誰にも見えないものを掬い取ろうとする純文学作家の目だった。
とはいえ、最後の6ページにわたる、家解体の場面は、専門家ならではの描写が見事だった。
一帯を震わせるのは重機のエンジン音だった。振動は地を伝い、雑草の葉先を揺らし、虫を羽ばたかせ、花弁の中から花粉を飛ばし、土の奥底に埋まっていた熱や湿気が呼び起こされ軀体の底にしがみついた。
迫り来るエンジン音の中、岩でも落ちたかのような鈍い音と金属のひしゃげる甲高い音がして小屋組が震えた。垂木が弾け、繊維のちぎれる音を散らし、ベリベリと屋根が剝がされあらぬ箇所から日が差し込む。地面に落ちた屋根は紙ベラのように力尽きてくたばっている。 (同前)
かくして、藪さんが建てて住み、緑と圭が住んだ家はこの世から消えた。しかし、彼らがそこで暮らした痕跡を、恐らくこの小説を読んだ読者は感じているはずだ。そういうものが残るのだということを信じられるようになっているはずだ。
私が住んでいた家も恐らく、バールで、ハンマーで、ノミで、重機でばらばらに解体されたに違いない。家の建っていた場所は更地となり、全てがなくなったところに、あの三階建ての家が建てられた。
けれど、私の中には、ベランダのトタン屋根にあたる寂しげな雨の音や、一階の和室のひんやりした空気、弟ととっくみ合いの喧嘩をしたためにあちこち擦り切れていた子供部屋の畳の感触などが残っている。
ずっと忘れていたが、私はそれらのものとともに今まで生きてきたのだ。
文:緒形圭子
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