■新しい特養への入所。今度は個室だ。

連載「母への詫び状」第三十四回〉

 
父の特養のお引越し。アルバム写真から知った、息子の知らない父...の画像はこちら >>
 

 アルツハイマー型認知症の父については、特別養護老人ホームに入所したところ〈特養に行った父。ぼくはあのとき、逃げてしまった。〉まで書いた。自宅から車で45分ほどの、緑の豊かな高台にある特養だった。

 約1年後、動きがあった。自宅から歩いて行ける距離に新しい特養がオープンして、そこへ入所できることになったのである。 

 父にしてみれば、せっかく住み慣れかけた環境から移るデメリットもあるとは言え、歩いて通える場所というだけで、これほどありがたいことはない。母とも相談して引っ越しを決めた。

 下見したところ、新しい特養はさすがにきれいだった。父がそれまで暮らしていたのは古い建物の4人部屋だったが、こちらは新築で全室個室。汚れひとつない淡いアイボリーの壁が、清潔さと同時に、殺風景さも感じさせた。

「この部屋の壁には、写真やポスターのようなものを貼ってもいいんですか?」

 案内してくれた施設の職員に尋ねると、

「釘や画鋲などを打つのは困るのですが、テープで止めていただくタイプのものでしたら、どうぞご自由に貼ってください」

 との返答だった。

 これも相部屋と個室の大きな違いだろう。相部屋は壁を自由に飾り付けることはできないが、個室なら家族の写真や、父の好きな山の絵などを壁一面に貼り巡らせても文句を言われない。いつも目に入るところに家族の写真があれば、認知症の進行を遅らせる効果もあるのではないかという想いもあった。

 抗がん剤の化学療法で入院を繰り返していた母も、ちょうど退院して家で暮らすようになっていた時期だったから、母と一緒に、父の新しい部屋の壁に貼る写真選びをすることにした。アルバムからいい写真を選び、それを拡大コピーして使いたい。

■父と母の思い出のツーショット

 母が整理していたアルバムをめくってみたら、父と母の旅行写真がたくさん出てきた。ふたりが退職した後の、比較的最近の写真だ。

 母は行動的で好奇心の旺盛な性格だったから、退職後はよく父を連れ立って、日本各地へ旅行に出かけていた。当時、ぼくは両親とまともに連絡をとっていなかったため、その事実をぼんやり聞いていた程度で、どこへ、どのくらいの頻度で出かけていたのかは何も知らない。

 アルバムを開きながら、父と母が想像以上に全国あちこちへ旅していたことを知った。北は北海道から南は沖縄までという定型句の通りに、北は根室の納沙布岬から、南は沖縄の美ら海水族館まで、元気だった頃の父と母のツーショットが並んでいた。

 根室へ行ったときには、お目当ての流氷がなかなか見られず、どうしても流氷を見たい父と、そこまでしたくない母の意見が分かれて、別行動をとったというエピソードも聞いた。

「さーむくてね。おとうちゃんは何時間粘っても流氷が見たいって言うし、わたしは先にひとりでホテルに帰ってきてしまって。おとうちゃんは待ったかいあって、流氷を見られたけど小さかったって」

 父の部屋に飾るには、母との思い出のツーショットがいいだろうと、そんな旅行写真ばかり選んでいたら、母は「わたしの写真よりか、あんたらが子供の頃の写真のほうがいいんじゃないかね」と言い出した。

 ずいぶん昔のアルバムを押し入れから引っ張り出して、自分が子供の頃の白黒写真をながめていたら、懐かしさよりも申し訳ない気持ちがこみ上げてきた。

 こんなに無邪気な笑顔を浮かべていた子供が、そのうち親と離れて暮らし、連絡も取らない大人になったのかと思うと、いったいどこですれ違いが始まったのか。

 節分の豆まき、端午の節句、クリスマスなどの暦の行事も、うちでは毎年やってくれて、楽しげな写真もアルバムに残っていた。紙のカブトをかぶって、にこやかに笑うかわいらしい男の子が過去の自分かと思うと、時の流れの残酷さに目まいがしてくる。

■新しい特養までの道のり

 そんなこんなで選んだ7、8枚の写真を拡大コピーして準備を整え、父の引っ越し当日を迎えた。

 往復1時間半のタクシー。母の体調を考えるとぼくひとりで送り迎えしたほうが無難かもと思ったが、母が先方の施設の人たちに挨拶をしたがったので、一緒に行くことにした。父としばらく会えていなかった母が、狭い車内で父と並んで座るのも悪くないだろう。

 父の特養に到着すると、久しぶりに母と会った父は、わかっているのか、わかっていないのか。

半分眠ったような状態でぼんやりしていた。
 

 1年間お世話になった人たちに挨拶を済ませ、帰り道は車の後部座席に、父をはさんで母とぼくと3人で座り、新しい特養へ向かった。親子3人、これは「川」の字に入るのだろうか。どちらかというと川よりも「粥」の字に近いのではないかと思い浮かんだが、それはどうでもいい。
 母が父に話しかけるうち、父も少しずつ意識がしっかりしてきて、人生の伴侶を認識したようだった。

 ぼくはふたりの話を横で聞きながら、両親の旅行写真を思い出していた。
 退職後の夫婦が仲良く連れ添って日本各地へ旅行に出かける。頑固で亭主関白だった父は、あまりそういう夫婦像が似合わない人だと決めつけていただけに、両親がそんな老後を実現していたとは少々意外でもあった。昭和ひと桁の夫婦としては、それなりに充実した余生だったのではないか。
 今後、父と母が旅行へ出かける機会はもう二度とないだろう。それを思うと、今こうしてタクシーの後ろにふたり並び、新しい特養へ向かうまでの道のりが、もしかしたら最後のささやかな旅行なのかも知れない。そんなふうに思えて、ゆっくりと時間が過ぎればいいなと願った。


 

※本連載は隔週木曜日「夕暮時」に更新します。本連載に関するご意見・ご要望は「besttimes■bestsellers.co.jp」までお送りください(■を@に変えてください)。連載第1~10回はnoteで公開中!

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