■万能の「鉄火場の装甲タクシー」
ドイツ装甲師団を支えた「鉄火場の装甲タクシー」の本命となった...の画像はこちら >>
また、履帯の上のフェンダーの中央部に並んだ、横長の長方形の3つのパネルは収納ボックスの蓋である。" target="_blank">写真を拡大 1940年1月にベルリンのウンター・デン・リンデンで撮影されたSd.Kfz.251のAモデルの兵員輸送型。運転席の直後に立つ兵士の左側に低く見えるハンガー掛けのようなものは機関銃の取り付けマウントで、機関銃が取り外されている状態。また、履帯の上のフェンダーの中央部に並んだ、横長の長方形の3つのパネルは収納ボックスの蓋である。

 非装甲の3tハーフトラックSd.Kfz.11の車台をベースに開発されたのが、装甲ハーフトラックのSd.Kfz.251である。そしてこのSd.Kfz.251こそが、ドイツが世界に誇るパンツァートルッペン(装甲部隊)を支えた万能の「鉄火場の装甲タクシー」であった。

 

 実用モデルの生産開始は、第二次大戦勃発のわずか3か月前の1939年6月。当時のドイツ軍歩兵約1個分隊を輸送できるように、1両の乗車人数は乗員2名と将兵10名である。

 本車の車体は多面体で構成されているので、避弾経始が考慮された設計と思われがちだ。しかし避弾経始の概念は、すでに火砲で戦う海軍で発見されていたものの、ドイツではまだ車両には採り入れられていなかった。そのため、Sd.Kfz.251の車体が多面体で構成されていたのは、車内容積を可能な限り広く確保するための工夫であった。しかしのちに戦場で、ライフル弾や弾片などに対し、結果論としてある程度の避弾経始効果を発揮することになる。

 だが、多面体で構成された凝った設計の車体は、生産工程を増やす結果を招いた。ゆえにかような車体を備えるA、B、Cの各モデルに対して、戦局の悪化が目立ちだした1943年9月から生産が開始されたDモデルでは、多面体の部分の面数を可能な限り減らし、部位によっては平面化することで生産の手間とコストを削減する省力化のための再設計が施された。

■実践での運用は。

 では、この「鉄火場の装甲タクシー」は実戦においてどのように運用されたのか。装甲と履帯を備えた半分戦車のようにも思えるハーフトラックだが、装輪トラックよりも不整地踏破性能に優れるためある程度は戦車に追従できるというだけで、実際の運用のされ方は、非装甲の装輪トラックよりは敵の第一線陣地に近づけるという程度のものだった。

 そのため、戦車部隊に追従するハーフトラックに乗車した装甲擲弾兵は敵陣の手前で下車し、戦車に続いて徒歩で前進し戦うというのが、日常的な戦法であった。そしてこのような戦闘時には、ハーフトラックはその搭載機銃で歩兵を掩護したり、当該のハーフトラックを割り当てられている歩兵分隊が、搭載機銃を外して携行し使用することもあった。

 

 装甲師団の装甲擲弾兵連隊は、本来なら本車で完全編成される予定だったが、実際には生産が追い付かず、本車で完全編成されたのは、一部のエリート装甲師団に配属された装甲擲弾兵連隊のみであった。

 基本型の兵員輸送型の基本武装は機関銃2挺。だが、2cm機関砲搭載型、3.7cm対戦車砲搭載型、24口径7.5cm短砲身砲搭載型、7.5cmPak40対戦車砲搭載型、8cm迫撃砲搭載型、ロケット弾のヴルフラーメン40搭載型、火炎放射器搭載型、工兵作業車、通信指揮車、装甲救急車、砲兵観測車、赤外線照射灯搭載型ウーフーなど、きわめて多くの派生型が造られた。生産総数は約15200両といわれる。

 また戦後、チェコスロヴァキアはSd.Kfz.251のエンジンを液冷ガソリンから空冷ディーゼルに変更し、各部に近代化改修を施した派生型のOT-810を1958年から1962年にかけて約1500両生産。

自国軍に配備している。