「日本人の体質」を科学的に説き、「正しい健康法」を提唱している奥田昌子医師。彼女の著書は刊行されるや常にベストセラーとなり、いま最も注目されている内科医にして作家である。
「日本人はこれまで一体どんな病気になり、何を食べてきたか」「長寿を実現するにはどんな食事が大事なのか」日本人誕生から今日までの「食と生活」の歴史を振り返り、日本人に合った正しい健康食の奥義を解き明かす、著者渾身の大河連載がスタート! 日本人を長寿にした、壮大な「食と健康」の大河ロマンをご堪能あれ。■健康の鍵は食養生

 江戸時代なかばに江戸の人口は100万人に達しました。この時代としては世界一の大都市です。社会が安定し、生活に余裕が生まれたことで人々の関心は健康長寿に向かいました。とくに重視されたのが食養生です。

 幕府の方針もこれと同じで、8代将軍吉宗は、生活の苦しい庶民も医師による治療を受けられるよう、療養所を開設し、食事管理に力を入れました。

 この時代の庶民は一日三食で、お米をしっかり食べ、朝食には味噌汁、昼食には野菜の煮物や魚を添え、夕食は漬け物をおかずに、お茶漬けを食べていたようです。

 幕末にあたる1850年代に、江戸っ子に人気の倹約おかずを相撲の番付風に並べた『日々徳用倹約料理角力取組』というランキングが出ています。これを見ると、漬け物は、たくあん、ぬか漬け、梅干し、らっきょうなど。そして定番のおかずが煮豆腐、いわしのめざし、貝のむき身を切り干し大根と炊いたもの、芝エビのから煎り、きんぴらゴボウ、煮豆などでした。ご飯によく合い、お袋の味として現代でも広く食べられているものばかりです。

 江戸の小石川に建てられた療養所は給食が朝夕二回で、男性患者には一日に白米を4・5合、女性患者には3・6合出していました。

病気でもこれだけ食べたのですね。給食の内容は細かく決まっていて、米は柔らかめに炊き、味噌汁は塩分をおさえた薄味で、具は大根、芋の葉などの野菜でした。

 現代の私たちは、昔の人は何も考えずに食べられるものを食べていたと考えがちです。とんでもない! 江戸の人たちだって、塩分控えめが大切なことくらい、ちゃんと知っていたのです。

 九州北部が大陸からの疫病の侵入口だったことから、続いて長崎に設立された療養所はとくに衛生面に気を配りました。暑い時期には、卵を持つ魚、背中の青い魚などのいたみやすい食品に加えて、水分が多いキュウリ、スイカ、梨などの提供が禁止されました。水分が多いと細菌に汚染されやすいと考えたからでしょう。

 当時は天然痘の他に麻疹も頻繁に流行しました。江戸時代265年間に流行が13回ですから、約20年に一回の割合です。麻疹は風邪に似た症状で始まり、高熱とともに全身に赤い発疹があらわれます。自然に回復する人が多かったものの、肺炎になって死亡したり、失明したりすることもある危険な病気でした。

 

 江戸時代後期になると、麻疹は伝染病だと考える医師が一部にあらわれます。

しかし、治療といえば、サイの角や、アリクイの仲間のセンザンコウ、カキの殻などを焼いて飲ませるくらいしかありませんでした。それにかわって、もっぱら関心を集めたのが食養生です。麻疹が流行するたびに、麻疹の予防に役立つ食べものや、食べてはいけないものを絵入りで説明した浮世絵が多数作られました。

『麻疹能毒養生弁』と書かれた浮世絵は、麻疹に効く食べものと、避けるべきことがらを相撲の番付のように並べています。図15をご覧ください。当時はまだ横綱という位がなかったため、よいものの最高位である大関が黒豆、関脇が小豆、小結が緑豆でした。豆のそろい踏みです。これに対して、食べてはいけないものの大関が冷えたもの、関脇が生もの、小結がネギとなっています。

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図15 『麻疹能毒養生弁(はしかのうどくようじょうべん)』 麻疹に効くものと悪いものが相撲の番付のように並んでいます。本文にあげた以外で有効なのが大根、人参、長芋など。その逆に、「風に当たる」「体を冷やす」「夜ふかしする」などは禁止です。内藤記念くすり博物館所蔵

 

 豆類が麻疹に効くことはありませんが、食べてはいけないほうの三役はいずれも胃腸に負担がかかる食品で、生ものはいたんでいるおそれもあります。

避けることで回復は早まったかもしれません。

 まじないも健在でした。しかし、この時代になると、真剣にすがるというよりは縁起をかつぐ意味あいが強く、面白がる余裕も見られます。

 図16は、麻疹の軍勢と、当時の麻疹の治療薬の軍勢の戦いを描いた浮世絵の一部です。画像は麻疹側の軍勢で、よく見ると、麻疹が流行するともうかる医師や薬屋の姿があります。画面中央付近に「麻疹方加勢」ののぼりや、薬店を意味する「薬種」の旗印が見えますね。図16には掲載されていませんが、その一方で、食べてはいけないとされた食品にかかわる鮨屋、鰻屋、蕎麦屋などが、麻疹の薬と力を合わせて麻疹に立ち向かっています。流行が早く終わってくれないと商売上がったりなのです。

江戸時代の“健康インフルエンサー”貝原益軒の教え
図16 麻疹の流行で得する人、損する人 『当世雑語流行麻疹合戦記』という浮世絵の一部で、麻疹側の軍勢が描かれています。医師や薬屋が麻疹を応援しているという、お江戸のブラックジョークです。内藤記念くすり博物館所蔵

 おそろしい病気だったはずなのに、笑いを誘う絵柄になっています。

■治療より予防を重んじた貝原益軒

 健康法を説いた養生書も大人気でした。

なかでも有名なのが、江戸前期から中期に活躍した貝原益軒(図17)の『養生訓』です。福岡藩に仕える武士の子として生まれた益軒は、幼い頃は体が弱く、学問に明け暮れる日々を送りました。やがて医学、薬学、農学、博物学、さらには教育学に通じた大学者となると、みずからも養生につとめ、84歳のときに『養生訓』を書きました。1713年のことです。

江戸時代の“健康インフルエンサー”貝原益軒の教え
図17 貝原益軒肖像画 聡明で物静かな人柄がうかがえます。益軒は大学者で、50年間に98部、247巻という膨大な書物をあらわしました。貝原家所蔵

『養生訓』は8巻からなり、総論、飲食、茶、喫煙、入浴、薬の服用、高齢者と子どもの世話などのテーマに分かれています。その思想をあえて簡単にまとめると、命あることに感謝しながら、慎み深く生きることこそ人の道であり、その先に無病息災がある、というものです。

 現代の医学知識に照らすと迷信にすぎない記述もありますが、益軒の教えのかなりの部分が、こんにちでも中高年の健康作りにおおいに参考になると考えられます。以下に紹介する益軒の思想は、『養生訓』から抜粋し、要約したものです。

●夕食は簡素にし、旬のものを食べよ

益軒:夜は体を動かす時間帯ではないし、食べたものの消化に時間がかかるから、夕食は控えめにするとよい。とくに味が濃いもの、脂っこいものは体の負担になる。

一番よいのは夕食を食べないことだ。

 いたんだものはもとより、季節外れの食材、十分熟していない食材は禁物だ。煮すぎたもの、生煮えのものも良くない。そして、どんなおかずであっても、ご飯よりたくさん食べてはいけない。日本人は大陸の人とくらべて胃腸が弱いので、肉は一食につき一切れ食べれば十分である。

解説:夜遅い時間に食事をすると太りやすいと聞いたことはありませんか。実際には夕食が遅いだけで太るという証拠はなく、脂肪がつくかどうかは、単純に一日のカロリーの摂取量で決まります。しかし益軒が言うように、遅い時間に食べると胃もたれしやすいのは確かです。とくに脂っこいものは、ただでさえ消化に時間がかかるため、寝る前に食べると胃腸の不調につながります。

 旬のものを食べるようすすめているのは、曲直瀬道三や、家康に健康法を伝授した天海僧正と共通しています。旬の時期に、十分に熟したものを適切に調理することで、栄養素を安全に、しっかり摂取できるからですね。

 日本人の体に肉は合わないというのも道三の思想と同じです。

科学的なデータはなくても、当時の人は、外国人と同じように肉を食べると体の負担になることを経験から知っていたのでしょう。

●食べるルールを作り、習慣にせよ

益軒:体に良いといわれるものでも、食べ過ぎれば胃腸をそこない、体を壊すもとになる。腹八分目にとどめること。食べる適量を決めておくとよい。

 食後の麺類やデザートは余分の負担になるので、食べたければ食事の量を減らしておけ。食べ過ぎたと思ったら次の食事を抜くか、ごく少量におさえるとよい。

解説:健康的な食生活のキーワード、「腹八分目」が早くも登場しています。生活が豊かになって食を楽しむ時代になると、食べ過ぎによる害が見られるようになりました。現代と重なりますね。食べたいものを食べたいだけ食べていては健康になれない。こんな時代だからこそ自分でルールを決めて、自分の意思で体を良い状態に保つ必要がある。益軒はこう考えていました。

 食後の麺類とは、今でいう「締めのラーメン」でしょうか? 江戸っ子の締めは蕎麦か素麺だったと思われますが、益軒の言葉どおり、麺類やデザートのカロリーは丸々余分ですし、寝る前に食べれば胃がもたれます。食事だけで終わりにすべきでしょう。

 そして、ごちそうを食べた翌日は、たとえ空腹を感じても、「いや、昨日あれだけ食べたのだから、今日はそんなに食べなくてよいはずだ」と考えて、食事の量をおさえる必要があります。

 

●体を動かせ、昼寝はするな

益軒:流れる水は腐らないが、よどんだ水は腐る。人の体も同じで、ずっと同じ姿勢で本を読んだり、いつまでも寝ていると病気になりやすい。こまめに動き、身の回りのことはなるべく自分で行うようにすべきだ。食後に数百歩、静かに歩くのを習慣にせよ。血のめぐりが良くなって消化の助けとなり、健康でいられる。

 昼寝は病気のもとだ。横になるだけでも良くないので、たとえ疲れていても昼寝は短時間にとどめよ。軽い運動をして眠気をやり過ごし、夜は23時から0時のあいだに寝て、朝日とともに起きると良い。

解説:江戸時代には自動車がなかったので、現代とはくらべものにならないほど、よく歩いていたでしょう。それでも益軒が体を動かすよう強くすすめているのは、それ以前の時代から見ると生活が便利になって、買い物一つ取っても近くですむようになったからと考えられます。

 食後に歩く目的は、食事の際のくつろいだ状態から、気持ちと体を穏やかに切りかえて、吸収した栄養を活動のためのエネルギーに変えることにあると思われます。

 長時間の昼寝を禁じたのは睡眠のリズムが乱れるからです。昨今、昼寝の効果が見直されていて、適度に昼寝をすると頭がすっきりし、気持ちがリラックスして、作業の能率が上がるといわれています。しかし、昼寝によって夜の睡眠が浅くなり、生活が不規則になったら体調を崩すもとです。昼寝をするなら30分にとどめ、午後3時には目覚めるようにしましょう。

●長生きできるかは心がけ次第

益軒:人の命は天からの授かりものであるが、たとえ弱く生まれついても養生次第で長生きできる。その一方で、丈夫な体を持っていながら、養生を軽んじたことで早く亡くなる人もいる。金があっても短命では意味がない。

 病気でないときこそ病気のことを思え。健康を過信せず、予防を心がけるべきだ。毎日続ければ養生の道もつらくなくなる。何も努力せずにいて、いざ病気になってから治療を受け、養生するのは大変つらいものだ。

解説:これが『養生訓』の肝にあたる部分で、ひと言でいうと、「予防は治療にまさる」ということです。予防につとめたおかげで病気にならずにすんだ人は、はたから見てもわからず、当の本人すら気づかないのが普通です。そのため、大病が治った人とくらべると世間の注目が集まりません。

 しかし、こういう人は病気に苦しむことなく、のびのびと人生を送ることができます。益軒自身も、高齢になってもどこへでも歩いて出かけ、夜は執筆に精を出しました。最晩年に『養生訓』を書き上げ、みごとに天寿をまっとうしたのです。

(連載第13回へつづく)

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