畠山政長と畠山義就との度重なる合戦によって疲弊しきった国人たちは、一揆によって山城国守護による支配を拒否するため団結したのである。これに対し、さすがの政長・義就もどうすることもできず、両者とも山城から引き揚げざるを得なかった。
守護不在のまま自治区となったのである。だが、名目上の守護となった伊勢貞陸(貞親の孫)が徐々に一揆衆の権利を奪いはじめる。
明応2年(1493)9月には命に服さない相楽郡・綴喜郡の国衆に対して兵を動かし、70人あまりを討ち殺すという挙に出(『蔭涼軒日録』)、2カ月後、一揆は鎮圧されて惣国は消滅する。
これは同年に発生した「明応の政変」で、細川政元と伊勢貞陸とがともに山城を掌握すべく工作をおこなったため、一揆が分裂し弱体化したのが遠因とも言われ、政変で10代将軍・義材(義視の子)を追い11代義澄(義材のいとこ)を擁立した政元による専制が確立されていくのだ。
なお、この変により義材派だった畠山政長は孤立。河内で自害に追い込まれ、2年前に病死した畠山義就の後を追った。
そのような長きにわたった畿内での戦いから、赤松氏、大内氏が勢力を伸ばし、山名家は衰退。本国に帰国した大内政弘は、中国地方の雄として領国支配を強化し勢力を築いていくのであった。 (了)
(次回より小和田泰経氏による『応仁の乱が起こした名家没落と下克上』が始まります)