名門中学の入試問題をひもときながら、江戸の町の武家・庶民の真実の姿をあきらかにしよう。江戸文化歴史研究家・瀧島有(あり)先生の新連載がスタート。
歴史を学び直したい大人、必読!■現代の小学校とは違う、「寺子屋」2016年 渋谷教育学園幕張中学校 千葉県・私立・偏差値72※四谷大塚データ
      社会科入試問題より  

問題:江戸時代後期の日本では、読み書きができる人の割合は他国に比べて高かったと言われています。これには絵図1にあるような寺子屋の存在があげられます。 江戸時代、多くの大名はa藩校を設けていますが、そこには厳しい入学資格がありました。 一方、町や村に作られた寺子屋には、さまざまな子どもが集まりました。寺子屋は、b明治時代以降に作られた小学校とは似て非なる存在です。また、現在の小学校とも異なる点を見いだすことができます。問1 傍線部aに関する次の文X・Yについて、その正誤の組み合わせとして正しいものを、枠内より1つ選び番号で答えなさい。 X 藩校の多くは参勤交代の影響により江戸に設けられ、幕府が実施する試験に合格した藩士が入学しました。 Y 18世紀になると、多くの藩校では西洋に遅れをとらないように蘭学が最も重視されました。

1、X正&Y正 2、X正&Y誤 3、X誤&Y正 4、X誤&Y誤 

「答え」:4(X誤&Y誤)

「解説」:Xについて。藩校は「藩の学校」なので、江戸ではなく「各藩(各大名の国許)」にあります。幕府が実施する試験は「素読吟味」「学問吟味」に代表されます。

この試験たちは幕府直轄の「昌平坂学問所」の管轄であり、「昌平坂学問所で実施」します。Yについて。多くの藩校は当然、幕府が正学(官学)と定めた「朱子学」を重視していました。では、問題文のテーマ「寺子屋」について、今回は、あまり知られていないその様子を見ていきましょう。

■70%以上を誇った江戸の識字率 

 江戸後期、日本は「江戸の町の人口」の他に、もう一つ、世界トップクラスを誇ったものがあります。それは「庶民」の識字率。全国平均では約60%以上、江戸の町では約70%以上でした。江戸の町の「実際」は、おそらく約80%以上だろうと言われています。

 江戸時代の日本には江戸の町を筆頭に貸本屋が沢山あり、殆ど全員にお得意たちがついていました。子供から年配まで、新品だった本が幾多の客の手を経て、もはや手垢で汚れ、すりきれ、ぼろぼろになった本でも借りて熱心に読んでいた事実を考えると、頷ける数字です。

 この数字は男性だけではなく老若男女を合わせたもので、これは当時としては極めて高いものです。当時の人口と寺子屋の数や就学率などから算出したといわれています。

 他にも、古くはザビエル、江戸時代はゴローニン、シュリーマン、ペリーなど来日した外国人たちの残した記録や言葉からも、当時の人々の高い識字率や教養の片鱗が伺えますので、その一端を紹介します。

「読み書きができて本を読む人間の数においては、日本はヨーロッパ西部諸国のどの国にも退けを取らない。日本の本は最も幼稚な本でさえ半分は漢字で書かれているのに」(ニコライ:1861年、函館のロシア領事館付司祭として来日)■学問は男のもの、…でも江戸の日本は違った!

 戦前まで、世界的に「学問は男がやるもの」というのが一般的な考えでした。

 イギリスはパブリックスクールに代表される「私立学校」が、地主や領主など紳士以上の身分の子弟用として発展しています。数百年前の当時から既に女子校もありましたが、やはり男子校が多いようです。

 入学対象も、あくまでも「中の上~」です。その中に庶民は勘定に入っておらず、それはどこの国でも当然のことでした。だから世界中、当時は特に「庶民の識字率」が低いのです。ましてや江戸時代の頃は欧米もアジアも「本を読み書きできる女性」は王侯貴族・官僚・裕福な家など、一部の人たちだけ。たまさか得意な女性がいると「男なら良かったのに!」などと惜しまれる場合もあり、なにやら紫式部を思い出しますね!

 紫式部は彼女が女房として仕えた中宮・彰子(藤原道長の娘)と曾祖父(三条右大臣・藤原定方)が同じで、二人は遠縁で一族です。紫式部の父・越後守藤原為時は、花山天皇の漢学の教師に任じられていたほど優秀な学者で歌人でもありました。

 彼女は男の兄弟がいて子供の頃、よく隣で彼が父に漢文など勉強を教わっているそばから、彼よりも早く正しく理解し覚えていったため、父は「なぜお前は男ではないのだ。

(男なら出世できただろうに)」と本気で惜しみ、嘆息したといいます。

 国や地域によっては「女性なのに夫や兄弟より読み書きや勉学が得意で聡明」だと外聞が悪くなるので、ひどい場合は家族がそのことを隠したり、本人が家族にバレないように秘密にしていたりするほどでした。

 ところが江戸後期の日本ではどうでしょう。

 男女関係なく、現代と同じく幼少時から「読み書き」を習い、大半の人が子どもから大人まで読み書きできたのです。移動図書館ならぬ「貸本屋」が大繁盛(新刊は高価ですが、彼らから借りると安く読めた)、お得意先には読書好きの女性たちが数多くいたことでもわかります。

「日本では、召使い女が互いに親しい友達に手紙を書くために、余暇を利用し、ぼろをまとった肉体労働者でも、読み書きができることでわれわれを驚かす。民衆教育についてわれわれが観察したところによれば、読み書きが全然できない文盲は全体の1パーセントにすぎない。世界の他のどこの国が、自国についてこのようなことを主張できようか?」

(ウ゛ェルナー:1860年、江戸幕府とプロシアの間に通商条約を結ぼうとした、オイレンブルク伯爵使節団の一員として来日。3年滞在した。プロシア海軍士官)

「教育はヨーロッパの文明国家以上にも行き渡っている。シナをも含めてアジアの他の国では女たちが完全な無知のなか放置されているのに対して、日本では、男も女もみな仮名と感じで読み書きができる」

(シュリーマン:ドイツの考古学者。世界漫遊中の1865年、日本に3ヶ月滞在した)■寺子屋は入学時、自前の机を持参して預け置く
江戸後期、日本は世界一の識字率を誇った!「寺子屋」が果たした...の画像はこちら >>
 

 では寺子屋の様子を覗いて見ましょう。

まずは入学の様子から。

 寺子屋は入学試験はありません。基本的にはいつでも入学できるのですが、「一般的な入学日」というものが当時ありました。毎年同じ日で、「7歳の2月の最初の午の日」です。この日は稲荷神社の「初午祭(はつうまさい)」の日。江戸では各町に稲荷神社が必ずあり、多いと1町に2~3社あります。

 この初午の日は「鮗(このしろ。子代とも。出世魚で、コハダのこと)」を供える習わしで、「子の代(しろ)」に通じるとして親は子供の成長を祈ります。そこから「入学に適した日」とされたようです。これが幕末になると「6歳の6月6日」が一般的になっていきます。

 寺子屋に入るのを「寺入り、寺上がり」と言いました。

徳川家康や武田信玄などもそうですが、戦国時代までは幼少期に「寺に上がって勉学を習う」のが普通でした。

 幼少期の徳川家康が勉学し、「落書きした机」などが残っていますね。江戸時代の寺子屋は、その名残といえるでしょう。

 さて、入学する子供は親に買って貰った文机(ふづくえ) (手習机)を寺子屋に持参し、のちに寺子屋を辞めるまでの間、ずっとそこに置いてきます。登校したら自分の机を引っ張り出し、帰宅時に積んで戻すわけです。

 この文机に関し、面白い話が残っています。

 洒落本や黄表紙で有名な戯作者・浮世絵師の山東京伝は物持ちが良く、「寺入り時の文机を大人になっても捨てずにいた」ため、死後、弟がお寺に納めたのです。もしかしたらずっと使っていたのかも!?

■寺入り当日はさながら入学式

 当日、子供は母や乳母など女性に付き添われて寺子屋へ。

 持参物は、

・束脩 (    そくしゅう ) (入学金、月謝。金額は身分相応ですが平均5千円。裕福だと2万円の家もあります)
・文机
・練習帳
・筆
・硯
・硯箱
・墨
・筆入
・雑巾
・他の生徒たちへの御菓子
・柄樽(黒か朱塗りで、二つの高い角のような大きく高い柄をつけた樽。お酒を詰めて持参)
・お赤飯
・お煮染め(当然、そのお重は堺重など有名な塗り物で高価)

 本人は、

・麻(あさ)裃(がみしも)

 を持参します。

 そして師匠も他の生徒達も全員麻裃で着座すると、お赤飯や菓子盆を廻して順に盃を飲み、師弟の契りを結びます。最後に三番能と高砂を唄い、入門儀式は終了。これが正式な寺入りです。

 江戸中期、寺子屋はまだまだ裕福な家でなければ通うは難しいものがありました。

 そうでない家の子は、大家や名主。地方や農村では地元の医者や僧侶などに、読み書きそろばんを教えてもらっていたのです。

 しかし寺子屋が激増した江戸後期以降は「払えない家は束脩は免除するが、生徒達への菓子は必須(煎餅や餅菓子で可)」など簡略化されたので、貧家の子も通うようになって識字率が更に上がり、冒頭の数字となったというわけです。

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