日本を代表する経営者たちが、むさぼり読んだとされる『ユダヤの商法』。その著者・藤田田に、誰よりも深く切り込んだのが、外食ジャーナリストの中村芳平氏だ。
中村氏は1991年夏、日本マクドナルドから要請され、藤田田に2時間近くインタビューをおこない、原稿をまとめたものが「日本マクドナルド20年史」に掲載された。その藤田田物語を大幅加筆修正してお届けする第4回(最終回)。■日本マクドナルドの成功の要因
藤田田物語④アメリカの犬にはならず。日本マクドナルド成功の理...の画像はこちら >>
 

 藤田が創業した日本マクドナルドが大成功したのは、米国のマクドナルドの創業者であるチェコ系ユダヤ人、レイ・クロック(1902~84年)との信頼関係が大きかった。クロックは「米と魚の食文化の国=日本」ではハンバーガー・ビジネスが失敗する確率は高いと考えていた。それを成功させるのは傑出した起業家が必要だと思っていた。だから日本の商社、スーパーマーケット、食品会社など300件近くがエリアフランチャイジー(AFC)をやりたいと申し出てきたのを拒否した。組織優先の企業ではダメだと判断していたからだ。

 そして、藤田と1対1で会ったときに、起業家としての突出した才能を見抜き、「あなたならできる」とマクドナルドのハンバーガー・ビジネスをやるように薦めた。藤田は少し考えた後に、「合弁会社日本マクドナルドの資本金は50対50、アメリカのアドバイスは受けるが命令は受けない。経営は日本人がやる」と答えた。レイ・クロックはこの条件を丸呑みした。

 そればかりではない。

このケースでは米国マクドナルドが、AFC加盟に際し日本マクドナルドから5%程度のロイヤリティを取るのが一般的だ。だが、藤田は「5%もロイヤリティを払っては利益が出ない」と猛反対、結局、ロイヤリティは2%で決着した。

 具体的には合弁企業の日本マクドナルド(藤田商店と米国マクドナルドの50:50)が、売上高のそれぞれ1%相当を藤田商店と米国マクドナルドに支払うという取り決めである。

 レイ・クロックが成功の条件としたのは「30年間で500店舖」を達成することだった。藤田は「それでは700店舖にしましょう」と提案し、ライセンス契約が結ばれた。

 レイ・クロックと2代目社長に就くフレッド・ターナー(1974~87年)は、店舗運営のトップに信頼する日系2世のジョン朝原を送り込んだ。米国マクドナルド本社の意思の体現者で、藤田の女房役であった。藤田を怒らせないようにジョン朝原のギャラは米国マクドナルドが負担した。

 日本マクドナルドが大成功したのは破格の好条件でライセンス契約を結べたことだ。またジョン朝原のような店舗運営のプロが加わったことが大きかった。しかしながら、マクドナルドを日本の食文化として定着、発展させたのは、藤田田という不世出の起業家であった。

 藤田は藤田商店で三越などに卸していた高級アクセサリーや衣料ブランドなども輸入したまま売るのではなく、日本人の好みに合うようにアレンジして販売した。

マクドナルドにしても、アメリカでは「McDonal'sマクダーナルズ」と発音するが、日本人には発音しにくいと、「マクド・ナルド」に変えた。日本人が発音しやすいようにしたのだ。

 一事が万事で、日本マクドナルドの1号店が1971(昭和46)年7月、三越銀座店の一角にオープンしたあとも、店舗に星条旗などアメリカを連想させるものは一切置かせなかった。

「日本人はアメリカの文化に憧れを持ってはいるが、太平洋戦争ではアメリカ軍との戦闘や空襲で多くの日本人が死んだ。日本人は戦争のつらい思い出を忘れていない。本質的には反米だ。だからアメリカを連想させるものは一切置くべきではない」(藤田)

 こうして藤田は日本マクドナルドがアメリカ発祥ではなく、日本発祥のハンバーガーだというようにして細心の注意を払って販売した。だからこそ子供たちは日本マクドナルドのハンバーガーが日本で生まれたハンバーガーだと思い込んだのである。
 
 藤田は日本マクドナルドの1号店、銀座三越店を開店してからしばらく、東京・新橋の藤田商店に本社を置いていた。73(昭和48)年1月、後に外食の経営コンサルタントとなる王利彰が日本マクドナルドに入社した。王は47(昭和22)年生まれ。生家は東京・池袋で飲食業を営んでいた。

立大法学部卒業、レストラン西武(現:西洋フード・コンパスグループ)を経て入社、それから19年5か月、日本マクドナルドに籍を置き、ジョン朝原の指導を受けた。王は本社で運営統括部長・海外運営部長・海外運営部長を兼任するなど要職を歴任した。王が日本マクドナルドに入社したときの貴重なエピソードを披露する。

「私が日本マクドナルドに入社したのは1号店の銀座三越店が開店してから1年5か月後の73年1月のことでした。本社を藤田商店の隅っこに置いていました。入社して初めてオフィスに入ったとき、部屋には日の丸の大きな旗が立てかけられていて、特攻隊のゼロ戦と隊員の写真が壁いっぱいに貼ってあって、まるで右翼の本部の部屋のようでした。私はとんでもない会社に入ってしまったと後悔し始めました。そうしたら藤田さんは旧制松江高校時代の学友が特攻隊でたくさん亡くなっているので、彼らのことを忘れないために写真を飾っているのだと説明しました」(藤田)

 王は藤田の日本人的な行ないに度肝を抜かれたという。

■藤田と『ユダヤの商法』

 日本人は、熱しやすく、冷めやすい人種であるといわれる。戦前、「鬼畜米英」と叫んでいた日本政府・国民は、敗戦で手のひらを返したように親米に傾いた。そして、91(平成3)年には、世界一の債権大国となって、米国をみくびる風潮が台頭していた。

 これは日本が島国で、国民の視野が狭いことから起こる問題である。

日本人が本当の意味で国際化していくのには、少なくとも外国語を2か国語しゃべれる人間をたくさん世に送り出すことが必要であろう。藤田は、英語とドイツ語の2か国語をマスターしたことで、国際的な視野から物事を発想することができた。ここに藤田の並みの日本人にはないスケールの大きさ、強さの秘訣があった。

「井戸水の温度は、夏は冷たく、冬は暖かく感じますが、温度そのものは一定に保たれています。これと同じで、人間の生き方とか信念というのは、時流に迎合してコロコロ変わるのではダメだと思います。時代がどう変わろうと、人間の生き方とか信念というのは変わってはダメなのです。起業家であれば常に事業を世の中のため推進するんだという、終始一貫した強固な価値観を持っていることが大切だと思います。私にとってはそれがユダヤ人の5000年の哲学であり、『ユダヤの商法』でした」(藤田)

 藤田はこう続ける。

「所詮、人生というのはなるようにしかならないものだなと思います。それは無理をして、自分の意志で捻じ曲げようとしても、決してうまくいくものではありません。私は、肉親の死を始め、同時代人の多くの死にも立ち会ってきました。そういった体験から、確信をもっていえることは、人間には、裸で生まれて裸で死んでゆくという単純な事実しかないということでした。

そうであるならば、今現在を精一杯生きてゆくこと、それが結果として金儲けにつながるのかもしれませんが、金儲けというのは、結局は目的ではなくチャンスを得るための手段ではないかと思います。確かに私も若いころは、100万円を貯めるのが最大の目的のような時期もありました。けれども貯まってみれば、それは次のステップのための手段でしかなくなったのです。要は、目標を持って、1日1日を粘り強く生きていくことに、金儲けの本質があるのではないでしょうか」(藤田)

 さらに藤田はこう付け加えた。

「またこんにち、日本マクドナルドが2000億円を超える企業に成長し、私が〝アントレプレナーのアイドル〟と持ち上げられるのも、一貫してマクドナルドの創業者であるレイ・クロックのビジネスで成功するための3原則『be daring be first be different』を守ってきたからだと確信しています」(藤田)

 ちなみにクロックの3原則とは、「勇気をもって、誰よりも早く、人とちがうことをやれ」という意味だ。アメリカの思想家・哲学者・作家のラルフ・ワルド・エマーソン(1803-82年)の格言だ。レイ・クロックはエマーソンのこの格言を教訓にして、マクドナルドを世界トップのファストフード企業に育てた。

 藤田もレイ・クロックが愛した3原則『be daring be first be different』を守って、日本マクドナルドを成功させたのである。

 藤田の発想の根底には、「人間は裸で生まれて裸で死んでいく」という東洋的無常観が存在した。そして藤田は「ものごとは生々流転、常に変化しある種の矛盾を克服していくことで進化する」と考えていた。

 藤田は義理・人情に厚い東洋的無常観と、合理主義の権化であるユダヤ商法とを融合させた。この東西古今の価値観を「弁証法的手法」でさらに高いレベルで調和統一した。

それこそが〝不世出の起業家〟藤田田のハンバーガー・ビジネスであったといえるのである。

 ■その後の藤田田物語……

 筆者は1991(平成3)年夏、藤田田に2時間近くインタビューし、日本マクドナルドの20年史に、「凡眼には見えず、心眼を開け、好機は常に眼前にあり 藤田田物語」を400字40枚弱書いた。この原稿を気に入ったのか、藤田田がかなり原稿に手を入れ、自分の言いたいことを書き加えた。今回じっくり読み直して、藤田田がどういう意図で加筆したのか忖度し、新しく取材して自分なりに加筆修正し、原稿をアップグレードさせた。

 筆者が日本マクドナルドの20年史に藤田田物語を書くきっかけは、85(昭和60)年10月発行の学研『活性』(A5判、NO.103、廃刊)に、「銀座のユダヤ人 藤田田研究」の一編として「証言/芽吹く商才 人生はカネやでーッ! これがなかったらなにもできゃあせんよ」を6ページで書いたことによる。

 この時期、筆者は『週刊サンケイ』(当時)の常勤記者をやめてフリーになり、先輩や同僚ライターの紹介で、月刊誌や週刊誌の仕事を受注していた。ただ、まだ駆け出しだったので経営者に直接インタビューするほどの人脈がなく、いいように使われた。『活性』の仕事でも新橋にあった名簿図書館で藤田田の旧制松江高校時代の同級生10数人の住所、電話番号などを調べ、「松江高校時代の藤田田とはどんな男だったのか」を片っ端から電話してアポイントをとり、取材にうかがった。

 藤田は旧制北野中学校から旧制松江高校に進んだが、この時は北野中学校で同期の大下勝正町田市長(当時)、旧制松江高校時代の日立金属(当時)の瀧谷健二副社長、西尾正二カトリック点字図書館長(現・ロゴス点字図書館、当時)など7~8人にインタビューし、証言集という形で原稿にまとめた。藤田はバンカラでなる松江高校で最右派の応援団長、戦後GHQが松江市に進駐して来たときは、得意の英語力を活用、GHQに出入りし通訳のアルバイトで高給を稼ぐようになった。

 藤田に直接取材するわけではなく、旧制高校の同級生に取材して藤田の人物像を書くという、この企画は藤田にとってみれば迷惑極まりないことだったかもしれない。ただ、藤田はこの『活性』の記事を懐かしがって大切に保管していたという。

 日本マクドナルドは91年7月に創業20周年を迎(むか)えた。当時は藤田田の全盛期で、藤田の肝煎(きもいり)で20年史の刊行が進んでいた。そんな折、当時の広報部長の久保さん(故人)という方から私に電話がかかってきた。

「日本マクドナルドの20年史を発刊するのですが、社史全体の構成が小さくまとまって面白くない。ついては中村さんに藤田にインタビューしてもらって、学研『活性』のような面白い記事を書いて欲しい」という依頼(い らい)だった。

 筆者は当時、処女作『13人の起業家たち 新事業に挑んだ男たちの素顔』(日本能率協会マネジメントセンター刊)を執筆中だったが、マック20年史の仕事をふたつ返事で引き受けた。藤田は外食産業のスター経営者であった。それゆえインタビューしたときは緊張してコチコチになってしまい、聞きたいことも思うように聞けなかった記憶がある。藤田はそれを察知して、私の先回りをして私が質問したいと思っていることをしゃべり続けた。非常に優しく、気遣いの出来る人だった。

 いろいろ話している中で藤田が私に本気で伝えようとしたことは、藤田商店の創業と不即不離の関係にあった「月々5万円の定期預金」のことだった。藤田が住友銀行(現三井住友銀行)新橋支店で初めて貯金したときの通帳を広げて、私に見せてくれたときのにこやかな表情は今も忘れない。

 藤田は筆者に、「私は怪物でもアントレプレナーのアイドルでもなんでもない。私の正体は月平均10万円40年以上続けている、この貯金通帳にある」と伝えたかったのではないかと思った。そこが旧友だった「光クラブ」社長の山崎晃嗣のように高利貸しで儲けようとした発想とはまったく異なる、現実主義者のおカネに対する考え方だった。

 筆者は藤田の月々5万円の定期預金を大きなテーマにして、「藤田田物語」を書いた。40枚弱の原稿を送ると、約80万円の原稿料がすぐに振り込まれてきた。400字の原稿用紙で1枚2万円相当の原稿料である。当時、学研の『活性』などで400字1枚3000円程度であった。日本マクドナルド20年史の原稿料は桁違いの高さで、当時も今もあれほど高額な原稿料をもらったことは一度もない。

 藤田が『日本マクドナルド』の20年史を刊行した翌年の92(平成4)年から、藤田商店と米国マクドナルド本社との2回目の30年間の契約交渉がスタートした。この辺の事情については、『日本マクドナルドに見るサラリーマン社会の崩壊 本日より「時間外・退職金」なし』(光文社、田中幾太郎著)が詳しい。

 この契約交渉は2001(平成13)年から30年間のロイヤリティを決めるものだった。藤田と米本社との契約交渉はもめにもめた。代理人の弁護士がやり合うわけだが、当初米本社は他国並みのロイヤリティ5%を主張した。それでは利益が出ないと藤田は1歩も引かなかった。交渉4年目頃に米本社はロイヤリティ3・5%を提示した。これは藤田商店への1%のロイヤリティを加えると4・5%になる。米本社は藤田商店への1%のロイヤリティを引き下げることを要求した。

 こうして藤田商店と米本社との契約交渉はロイヤリティ3%を巡って争われた。この過程で藤田はレイ・クロックと約束した藤田商店への1%のロイヤリティを0・5%に下げざるを得なくなった。

 98(平成10)年8月、藤田商店と米本社のライセンス契約更新が結ばれた。それによると日本マクドナルドから米本社へのロイヤリティの支払いは、01年1月~10(平成22)年12月の10年間が2・5%、11(平成23)年1月~2030年12月の20年間は3%となった。この間、藤田商店へのロイヤリティは30年間一律0・5%と決まった。藤田にとってはなはだ不満の残る結果だった。「藤田商店なくしては日本マクドナルドの成功はなかった」と激怒したという。藤田はこの契約更新で米本社との対等合併は終わり、経営の優位性が崩れ、米本社主導の経営になると判断した。「社員たちには申し訳ない」と詫びた。そこで藤田は日本マクドナルドの株式上場を決断、キャピタル・ゲインを獲得する方向に舵を切った。

 藤田、及び藤田商店の株式公開による株式放出は、藤田家の日本マクドナルド支配の終焉であった。米本社は日本マクドナルドの株式の上場に徹底的に反対したが、50%の株を持つ藤田家はこれを押し切った。99(平成11)年6月には全社員5000人に対し1株750円でストックオプションを実施した。店長で900株まで購入できた。

 こうして藤田は01年7月、日本マクドナルドをJASDAQに上場させた。藤田と息子の元、完の3人が放出した株数は1420万株、公募価格は4300円。藤田家は610億円の公開益を手にしたことになる。初値は4700円を付けた。これによって多くの一般社員は臨時ボーナスを手にすることができた。

 一方、藤田家の3人の持ち株比率は26%台にまで落ち込み、日本マクドナルドの経営権は米本社に移った。その後、藤田家が保有する株は売却され、藤田商店の権利だった日本マクドナルドの売上高の0・5%のロイヤリティに加えて、ポテトの輸入権も売却され、藤田商店と日本マクドナルドとの契約関係はすべてなくなった。

 藤田は02(平成14)年3月には副社長の八木康行を社長兼COO(最高執行責任者)に就け、藤田は会長兼CEO(最高経営責任者)に就いた。この時期、旧制松江高校時代から東大時代、藤田商店時代と浴びるようにして飲んだ酒がたたり、肝臓の病気で長期入院することもあった。

 03(平成15)年3月には日本マクドナルドを引退した。藤田はこの頃「桜の花が散るように静かに散りたい」とマスコミに伝えた。そして自らの寿命を悟ったかのように、翌04(平成16)年4月21日、心不全のため東京都内の病院で死去した。〝不世出の怪物〟藤田田の遺産総額は約491億円、歴代6位だった。

 なお04年、米国マクドナルド本社の意向で原田泳幸が日本マクドナルドホールディングス、日本マクドナルド副会長兼社長兼CEOに就いてから、藤田色の一掃が始まり、ホームページから創業者・藤田田の氏名が消された。「勝てば官軍」は藤田田の信条であったが、一方で藤田田は「人間は裸で生まれて裸で死んでいく」という東洋的無常感の持ち主である。草葉の陰で呵呵大笑しているはずだ。

「人生というのはなるようにしかならない。自分の意思で捻じ曲げようとしても、決してうまくいかない」……。

(『日本マクドナルド20年あのあゆみ』より加筆修正)〈完〉

編集部おすすめ