史料というものは、当時に書かれたものであっても簡単に信じてはいけません。書いた本人の思い込みによる事実の歪曲もありますが、意図的なプロパガンダの可能性もあるからです。
たらいに乗って登城する大久保彦左衛門『三河物語』という書物があります。1622年からそれ以降に成立したものとされ、書いたのは大久保彦左衛門という江戸時代初期の旗本です。書いた目的は、彦左衛門自身によれば、「三河松平郷の一豪族だった徳川氏が天下を掌中におさめるまでに、大久保一族がいかに忠誠をつくしたかを記録しておくことで、だからこそ今も未来も忠勤に励まなければいけないということを子孫に示す」ためだそうです。戦国時代のことが書かれていますが、書かれたのは徳川幕府が開闢(かいびゃく)して20年ほども経ってからのことであり、戦国当時の史料ではないのに1次史料のごとく扱う人がいるという困った本でもあります。
はっきり言いますが、『三河物語』は、単なる老人のボヤキです。面白くありません。どれだけつまらないかは、中央公論新社(旧・中央公論社)の「マンガ日本の古典」シリーズを眺めてみることでわかります。石ノ森章太郎先生が担当したシリーズ最初の『(1)古事記』(1994年)や、さいとう・たかを先生が担当した『(18)(19)(20)太平記』(1995年)は古典の作風と漫画家の画風がやたらとハマっていて面白くできています。ところが、『(23)三河物語』(1995年)は安彦良和先生が担当しているのですが、中身のマンガ化では作品にならないので、大久保彦左衛門と家来の一心太助を中心に「三河物語ができるまで」みたいな話にしたそうです。
その『三河物語』の中でも、唯一面白く印象に残るのが、「知行を取る者取らぬ者」という節です。ちくま学芸文庫の『現代語訳 三河物語』(小林賢章・訳 筑摩書房 2018年)から全文引用しておきます。「知行」とは俸禄として上から与えられる土地のことです。
まず、ご知行をくだされなかったとしても、ご主人様に不満を申しあげるな。前世の宿縁なのだ。そういうけれども、知行をかならず受けとれるようになるには五つの場合があるが、それでもそんなふうに思って、知行をみずから望んではならない。また、知行を受けとれない者にも五つあるが、この方は、飢え死にするようなことがあっても、そんなふうに心がまえをもっているべきだ。まず第一に、知行を受けとれる者には、ひとつには主君に弓を引き、謀反、裏切りをした人は知行もとり、末代までも繁栄し子孫までも栄えるようだ。二つには、卑劣なことをして、人に笑われた者が知行をとるようだ。三つには、世間体をよくして、お座敷のなかで立ちまわりのよい者が知行をとるようだ。四つに、経理打算にすぐれ、代官の服装がよく似あう人が知行をとるようだ。五つには、行く先もないような他国人が知行をとるようだ。雷光や朝の露、火打ち石のだす火花のように、夢のようなこの世に、どうせ世を送ったとしても、名にかえることはあるまい。人は一代、名は末代というではないか。
ボヤキ節、全開です。大久保彦左衛門は、家康の祖父・松平清康の代から仕える宿老・大久保忠員の8男でした。
かなり無理があるボヤキですが……。
■『三河物語』に書かれていることは本当なのかさて、『三河物語』に書かれていることは本当でしょうか。大久保彦左衛門という一老人のボヤキである、2次史料ですらない代物(しろもの)に史料価値があるかどうか、その時点ですでに怪しまなければいけません。ただし、史料等級の低い後世の創作だからと完全に無視してもいけません。
大久保彦左衛門は、末端の家臣とはいえ、当事者です。後世とはいえ、『三河物語』はまだ戦国時代の記憶が残っている時代に書かれた回顧録です。江戸時代のそれ以降のものとはまったく違います。
大久保彦左衛門が、「清康は天下を取れたとか言っている」というのは事実です。『三河物語』は自筆本も残っており、彦左衛門が書いたものだということは証明されていますから、「彦左衛門が~と言っている」ということ自体は、まったくの事実なのです。
「天下を取る」と言った場合、彦左衛門が書いている時点では、「天下」は間違いなく家康が手に入れた「天下」、つまり日本全国を指しています。
では、松平清康が生きていた時代、清康は1511年に生まれて1535年に殺されているわけですが、この時代、「天下」とはどこを指していたでしょうか。
答えは、「畿内」です。
清康が生きていた時代に「天下を取る」と言えば、畿内を治めるという意味でした。
信長の印文で有名な「天下布武」は信長の誇大妄想です。詳細は、前掲『大間違いの織田信長』をどうぞ。
とにかく、信長の誇大妄想が始めた「天下」イメージを、大久保彦左衛門は、そんなイメージなどありえない、信長よりも前の時代、清康の時代に投影してくやしがっているだけです。戦国時代から江戸時代へといった具合に時代が劇的に変わってしまうと、前の時代がどんな時代だったかということなど、人間は簡単に忘れてしまうものです。
■「朝日新聞・岩波書店全盛の時代」たとえば、みなさんは、2002年9月17日の前の日本がどんな国だったかということをきっと忘れているでしょう。
時の内閣総理大臣小泉純一郎が北朝鮮を訪れ、時の朝鮮労働党総書記・金正日と第1回目の日朝首脳会談を行った日が9・17です。北朝鮮側はこの日に初めて、日本人を拉致した事実を認めて謝罪しました。
今でこそ、ネトウヨ本が幅をきかせていますが、右翼、保守どころか中道ですら発言の場所がなかったのが9・17前の日本です。朝日新聞・岩波書店全盛の時代と言ってもいいでしょう。
私は1990年代、中道を自称する人に、「君には愛国心はないのか」と質問したことがあります。すると即答で、「僕にだって祖国への愛国心はあります」と返してきました。私はその人を共産主義者だと思っていたので驚いて真意を聞くと、そのココロは「祖国の祖は、ソ連のソです。労働者の祖国はモスクワにあります」でした。
実話ですが、ソ連が存在していた頃は、今となっては信じられないくらいの時代だったのです。朝日・岩波全盛時代の昔と、ネトウヨ本隆盛の今、まるで別の日本です。
『三河物語』で英雄視されている松平清康が本当に立派な人だったかどうかはわかりません。そこそこ勢いがよく、少しばかり力を持ち始めたかなと思ったら「森山崩れ」であっという間に殺され、そのひとり息子の広忠は当時まだ10歳で苦労を重ねます。広忠は大叔父の信定に岡崎城を奪われ、流浪するとともに命も狙われ、今川氏輝の計らいで三河に戻り、やっと岡崎に帰城します。しかし、23歳でこの世を去ります。『三河物語』はただ「病死」としていますが、家臣に殺害されたとしている史料もあります。
広忠のひとり息子が後の家康こと竹千代ですが、三河の家臣たちはみな「凄かった」清康の生まれ変わりのように思っていたようです。
今川家の配下となる松平家の様子は、まさに大日本帝国に侵食される李氏朝鮮です。
松平家は跡取りの竹千代を今川に人質として差し出します。ところが、竹千代は織田に誘拐されてしまいました。寝返りを求める織田に対し、広忠が「殺せるもんなら殺してみろ」と開き直り、今川への忠誠を示します。しかし、その広忠の方が先に死んでしまい、父子は二度と会えませんでした。
その後、人質交換で竹千代は今川に送られ、その間、三河が今川に軍事占領され、三河武士団は百姓をしながら重税に耐え、軍役に駆り出されます。忍従の日々は12年に及びます。「日帝36年」ならぬ「今川12年」です。今川に支配される松平のイメージ、大日本帝国に屈服した朝鮮人の如く描かれるのが常です。
■三河武士団の忠誠心を示す、名シーン幼少期の家康を語る定番エピソードがあります。人質生活の家康が一度だけ里帰りした時、重臣たちが「若が帰ってきたときのために、武器と金と食を貯めております」などと密かに物資を貯めこんでいた蔵を見せます。今川の虐めに耐えながらも未来の当主の帰りを待つ三河武士団の忠誠心を示す、名シーンです。ありそうな話ではありますが、事実かどうかの検証は専門家と好事家に任せましょう。
余談ですが、かつて『少年徳川家康』(NETテレビ 現・テレビ朝日)というアニメがありました。1975年の放映です。笹川良一が率いていた日本船舶振興会(現・日本財団)の一社提供です。笹川良一が自らを投影するかたちで作った『少年徳川家康』でしたが、ぜんぜんウケなくて半年でぽしゃりました。ちなみに、その後番組こそ、超長寿番組となるアニメ『一休さん』でした。
さて、竹千代は元服して、庇護下にあった今川義元の「元」の字をとって「元康」を名乗り、17歳の時に「大高城の兵糧入れ」と呼ばれる最初の戦功をたて、駿河に凱旋します。その時の様子を大久保彦左衛門は《ご譜代衆のよろこびはいいつくせないほどだった。「苦しいなかでとにかくお育ちになり、軍略もどうかと朝夕心配しておりましたが、清康の威勢によくまあそっくりになられたことのめでたさよ」といい、みな涙をながしてよろこんだ》(前掲『現代語訳 三河物語』)と書いています。
見事なまでの、自己催眠です。あったのかなかったのかさえわからないかつての栄光が再来するとでも思い込まないとやっていけなかったのが、当初の三河武士団でした。流浪中のユダヤ人のようなものです。人間、絶望的な状況になると過去のささやかな栄光を過大に美化し、「俺たちだって昔はすごかったんだ。あの栄光を取り戻すために、今の苦難に耐えるのだ」という思考回路に傾くものです。

松平家は、桶狭間の戦いまでのあらゆる戦でこき使われました。事実、その通りです。大英帝国にこき使われたグルカ兵のようなものでしょうか。グルカ兵とは大英帝国に征服されたネパールの山岳民族で、勇猛果敢で知られていました。北清事変では北京まで駆り出され、第2次世界大戦では日本軍とも戦い、朝鮮戦争にも参加しています。
とは言うものの、今川義元は松平をそれなりに遇しています。
家康は義元の親戚の娘である築山殿と結婚させられます。築山殿はお嬢さん育ちの年上女房で、家康と気が合わなかったことから、三河武士団忍従の象徴のごとく語られたりもします。仲が悪いと言う割には、2人も子供を作っているのですが。
今川としては、征服した松平を一族かつ重臣の列に加え、お家を強化しようとしたのです。征服した相手を取り込むという戦略は、義元を補佐した軍師・太原雪斎の知恵です。今川が三河武士団を利用したのは確かですが、奴隷のようにこき使ったと考えると誇張がすぎます。
ちょうど日韓併合後の大日本帝国が、李氏朝鮮の王族と日本の皇女の結婚を推奨したようなものです。
これは松平から見れば、「侵略」です。ちなみに、この場合の侵略は「Seizure(獲得)」です。「侵略」の定訳は「Aggression」ですが、これは誤訳です。「Aggression」は正確には侵攻(進攻)くらいの意味で、「挑発をされていないのに先制攻撃を加えた」という意味です。「侵略」という漢語には残虐にかすめ取るという意味が含まれますが、「Aggression」にその意味はありません。
■論法はいつも同じここで、かつて大日本帝国は「侵略」をしたのかという話にも触れておきましょう。
日本は李氏朝鮮に挑発されていますから、「Aggression」はしていません。明治初年以来、朝鮮はことあるごとに日本を挑発していました。時には清朝の軍隊を自領に招き入れ、日本の安全を脅かしてもいます。だから、日本が先制軍事攻撃をしても、国際法的には「Aggression(侵攻)」はしていません。同様に、漢語の意味での「侵略」もしていません。
しかし、「Invasion (侵入、進入)」の後に「Seizure(獲得)」をしたのは事実です。「Invasion」にも「Seizure」にも道徳的な意味はなく、単なる動作を表す単語です。
だから、「日本は韓国を侵略したのか?」と聞かれたら、「はい」とも「いいえ」とも答えられます。「Invasion」と「Seizure」はしましたが、「Aggression」はしていませんが正解です。ところが、「日本は侵略した」という人は、「Invasion」と「Seizure」の史料を探し出してきて、さも「Aggression」をしたかのように言いふらします。騙しのテクニックです。
「島津氏が琉球王国を侵略した」も、同様の論法です。
大日本帝国も島津氏も今川氏も、やっていることは同じです。しかも、島津や今川の場合は戦国時代で、「侵略はされる方が悪い」時代ですから。国を奪われたものをかばう国際法など、当時は存在しませんし。ときどき、「日本は琉球を侵略した悪い国だ」と言う人がいますが、「今川は松平を侵略した悪い奴だ」くらいの意味しかありません。
その点、三河武士団は偉かった。泣き言を言わずに生き残り、勝った後で歴史を好き勝手に書いているのですから。