「人は死んでも、誰かのなかで生き続け、その生き方を変えたりする。それもまた、人に与えられた幸せかもしれない。」
と語るのは、この度『平成の死 ~追悼は生きる糧~』(KKベストセラーズ)を上梓し、話題となっている著述家・宝泉薫氏だ。

今回は、「人の生き方」を変えたともいえる平成時代の有名人の死を取り上げ、「追悼は生きる糧」になることを示した宝泉氏の特別寄稿を公開。
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 不治の病から闘う病へ。昭和から平成にかけて、ガンのイメージは変わった。本人への告知が行なわれることも増え、有名人が会見を開いて病名を公表したりするようにもなった。平成5年には、54歳の島倉千代子が乳ガンにかかっていることを告白し、

「私の中で『ガン』という言葉は、イコール死に繋がるもの」

 と切実な不安を語ったが、無事生還。それから75歳まで生き、同じ病気の人たちに勇気を与えることになる。

 しかし、ガンはもちろん甘い病気ではない。平成8年に咽頭ガンを公表した勝新太郎は、その会見ですでに始まっていた入院治療に触れ、

「ガス麻酔はマリファナ以上。『モルヒネも打ってくれえ~』って、先生に頼んじゃったよ」

 と笑わせたり「酒もたばこもやる気がしないのでやめた」と言いながら、たばこをふかしたりと、独演会を繰り広げた。が、その7ヶ月後の翌年6月に亡くなってしまう(享年65)。ちなみに、会見でのたばこはあくまでパフォーマンスで、実際の療養生活は禁煙禁酒で真面目な患者だったという。それくらい復帰して仕事をしたい思いが強かったにもかかわらず、稀代の豪傑もガンには勝てなかった。

 そして、平成初期に誰よりもガンの怖さを世に伝えたのが逸見政孝だ。フジの局アナからフリーになり、人気番組をいくつも持って「平成の視聴率男」と呼ばれていた平成5年9月、彼は歴史的な会見に臨んだ。 

「私が今、侵されている病気の名前、病名は……ガンです」

 胃ガンであることを告白。10日後、13時間にも及ぶ大手術を受け、3キロ分もの臓器が摘出された。しかし、じつは8ヶ月前に最初の診断が下された時点で、助かる見込みのない状態だったという。クリスマスに48歳で帰らぬ人となり、葬儀ではヘアメークを担当していた豊田一幸(のちのIKKO)が死化粧を施した。

 その闘病をめぐっては、激しい論争も起き、ベストセラー『患者よ、がんと闘うな』などで知られる医師の近藤誠は「手術せずにいたら、しばらくは普通の生活ができたはずだ」と指摘。未亡人の逸見晴恵も、

「最後は言葉も出ないくらい苦しんでいましたから、別の選択もあることを知っていたら、と非常に残念です」

 と、後悔をにじませた。

 また、家族以外で深い喪失感にさいなまれたのがビートたけしだ。『たけし・逸見の平成教育委員会』などで共演、おたがい大親友と認め合う仲だった。翌年、北野武として映画『ソナチネ』を発表するが、その撮影中、こんなことを口にしていたという。

「もう未練はない。

死ぬことも怖くない」「伝説化される事故死がいい」

 そんな意識が作用したのか、映画公開の翌々月、バイクで事故を起こし、生死の境をさまようことに。ただ、これを乗り越えたことで、カリスマ的なオーラはさらに増すこととなった。逸見の死は、たけしの人生を変えたのである。

■ヤンチャだった男を“家族思いの強く優しい男”へと変えた美女
人生を変えた闘病、会見、死……逸見政孝とたけし、小林麻央と海老蔵
市川海老蔵と小林麻央

 そういう意味では、小林麻央の死にも似たことがいえる。31歳のとき、人間ドックで乳ガンの可能性を指摘されたが、治療開始が遅れ、平成29年、34歳で他界。幼い子供をふたり残しての無念の最期だった。しかし、その闘病と死は夫であった市川海老蔵に多大な影響を与えることになる。

 恋愛や暴力にまつわるスキャンダルでやんちゃな印象が強かった海老蔵。それを一変させたのが、平成28年6月の会見だった。

「元気になりたい気持ちと、小さい子どものそばにいられない母親の思いは、計り知れない苦しさと闘っていると思います」

 と、妻をいたわり、

「ママが帰ってこないのはなぜ? というクエスチョンがあった長女も会見を見ていると思う。これで理解してくれるのでは……」

 と、子供を気遣う姿は、見る者の胸を揺さぶった。

 その瞬間、海老蔵のイメージは「家族思いの強く優しい男」に上書きされたのだ。

と同時に、麻央は助からないのではとも感じた。じつは以前から、彼のスキャンダルは歴史に名を残す男がたどりがちな貴種流離譚のような気がしていたからだ。そういうものには往々にして、悲劇的な(もっぱら女性の)脇役が登場する。古代の英雄・日本武尊が東征の途中、海で嵐に遭遇した際、妻の弟橘媛が入水して窮地を救われたように。麻央もまた、いずれ十三代市川團十郎となる男の壮大な物語のなかで、悲運な死によって彼をひきたてる役割を担っているのではと思われたのである。

 妻を亡くした翌日も、海老蔵は舞台を務め、昼と夜の公演の合間にその死を発表する会見を行なった。婚約会見の際、麻央が「『来世も再来世も一緒にいたい』と言われてとてもうれしかったです」と言ったことに触れ、

「僕は今でもそのつもりです。(闘病中に)その話もしました」

 と、涙ながらに語る姿は見る者を感動させたものだ。

 彼女の人生は短かったが、今後は末永く、歌舞伎界の伝説、いわば英雄物語のヒロインとしても語り継がれるだろう。それもまた、彼女自身がした人生の選択の結果であり、苦しみに耐えて生き抜いたことによる特権だ。

 娘の闘病と死によって、人生が変わった男もいる。児玉清だ。

『パネルクイズアタック25』や『週刊ブックレビュー』の司会者として知られていたが、平成13年、木村拓哉の代表作『HERO』に出演したことで俳優として再評価された。じつは50代あたりから芝居への情熱を失っていたため、そのオファーも断るつもりだったという。

 ところが、当時マネージャーをしていた娘から、

「そんなに断ってどうするの。とにかく、世間も泣く子も黙るキムタクさんが出るんだから、目の前を歩くだけでもいいから出なさい!」

 と諭され、出演を決意。じつは彼女、食道から胃のガンを患い、手術をしたものの数ヶ月前に再発していた。ドラマが大ヒットすると「そーら、見なさい」と満足の笑顔を見せたが、それから1年余りのち、36歳で帰らぬ人に。それでも、名優の再生という、大仕事を果たせたのはせめてもの喜びだっただろう。娘の死から半年後、ラジオでこの思い出を明かした児玉は、宇多田ヒカルの歌う『HERO』の主題歌を聴きながら嗚咽した。

人生を変えた闘病、会見、死……逸見政孝とたけし、小林麻央と海老蔵
 ■世界のミュージックシーンを席巻したレジェンドの衝撃的カミングアウト

 最後に、平成初期にはガンよりも怖れられていたAIDSによる死に触れておこう。Queenのボーカルとして世界的に人気を博したフレディ・マーキュリーが、45歳で亡くなったのは平成3年。闘病中、ブライアン・メイに壊疽でそのほとんどが失われた片足を見せ「こんなものを見せてしまってすまない」と謝ると、長年の友は「君がそんな痛みと闘っていたなんて」と嘆いたという。

 亡くなる前日にはAIDSであることを公表したが、同性愛者だとされる有名人の告白と直後の死は衝撃をもたらした。

ただ、それから30年近くがたった今、この病は不治ではなくなり、同性愛をめぐる考え方も変わりつつある。平成30年には映画『ボヘミアン・ラプソディ』が日本でもヒットして、フレディ人気が再燃。多くのメディアがとりあげるなか『SONGS』では古田新太がこんな讃辞を捧げた。

「なんでしょうね、フレディが気持ち悪いっていうのが、どうしてもありましたね。美学にその独特のものがあるというか」「なんでヒゲはやしたまま女装してたんだろうな。数多くのそんなことしちゃっていいんだ、っていうのを教えてくれたバンドだと思います」

 そんな古田は現在『俺のスカート、どこ行った?』で女装趣味の中年ゲイ教師を楽しそうに演じている。こういうキャラが主役のドラマが普通に放送されるようになったのも、フレディらの功績だろう。

 人は死んでも、誰かのなかで生き続け、その生き方を変えたりする。それもまた、人に与えられた幸せかもしれない。

 

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