まずは自己紹介
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 はじめまして。茨城県で新米猟師をしているNozomi(のぞみ)と申します。

 本業はヨガのインストラクターです! ヨガのインストラクターなのに猟師!? !? なんじゃそりゃ???と、思われた方もいるかもしれませんね。でも、私は数年前まで東京で営業職に従事していた、ごく普通の女子なんです。

 そんな私が何故、そしてどんな想いで茨城県で猟師をしているのか、この場を借りて少しづつ綴らせて頂こうと思います。私の拙い文章を通して少しでも“狩猟”に興味のある方、すでに“狩猟”に携わっている方、そして何より“いのち”と向き合っている全ての方のお役に立てれば幸いです。

 

 私は、長いものには巻かれるタイプの女子でした。みんなが大学に行くならとりあえず大学に行き、何となく就職活動をして、とりあえず就職。

―何となくやとりあえずの積み重ねで生きていました

 それでも営業職に就き、数字を追いかけるのは楽しかったです。もしかしたらゲーム感覚だったのかも。営業成績はどんどん伸びていきました。だけど、毎朝ギュウギュウの満員電車に乗って、ガムシャラに売り上げをつくって、家に帰って泥のように眠る生活にずっと違和感を感じていました。

 

 朝は7時過ぎに家を出て、家に帰るのは終電近くの日もありました。もちろん、ご飯はパパっとコンビニ食やカップラーメン。

身体はいつもだるくて、お休みの日はひたすらダラダラ、

まるで廃人のよう……。

体重もどんどん増えて10キロ近く太りました。

 当時、そんな不規則な生活、コンビニ食ばかりで体調を崩してしまった私を心配して、茨城県で農家を営んでいた祖父母が定期的にお野菜やお米を送ってくれていました。

自己紹介 ~東京で営業をしていたのに、気が付いたら茨城県の猟師に!?~
おばあちゃんが送ってくれた野菜

 

おばあちゃんから届く野菜たち! 瑞々しくて美味しい!

 

―そのお野菜の美味しさと言ったら!(* ゚Д゚*)

じぃばぁのお野菜は本当にうまいなぁ……!

いつか都会を離れて毎日このお野菜を食べたいなぁ!

このお野菜が育った大地を踏みしめて、吹き抜ける風を身体で感じて、太陽と共に生きていけたら素敵だなぁ!

 

私は、自然とそう思うようになっていました。
茨城への移住を決めた日の事を今でも覚えています。祖父のお葬式の日でした。畑や直売所は祖母ひとりでは運営が難しく廃業の危機です。

おじいちゃんとおばあちゃんのお野菜が食べられなくなるなんてイヤだ!

そう、強く思ったのは私だけではありません。

 どうしても畑を守りたい。そう思った私達孫一同は話し合い、皆で少しずつ準備をして、数年後に一緒に畑をやろう! と約束したのです。移住を決めた時、身体中の細胞がひとつひとつ入れ替わるような、澄み渡っていくような感覚でした。何となく物事を決めて流されるように毎日をやり過ごしていた私はもう、どこかへいってしまいました。

私には茨城県で生きていけるという自信がありました

 その後は記憶も曖昧なほど忙しい日々のはじまりです。
 まずは体調を整えなければ! 身体が資本ですもんね!
 不規則な生活で体調を崩しがちだった私は、ヨガに興味を持っていました。

 手に職を!

 とも思っていたので、インストラクターの養成学校に通い始め、平日は仕事、仕事が終わった後はヨガの学校。合間に練習、勉強。土日は養成学校の補講や、茨城の住む土地の下見や家の準備です。東京と茨城を何度も何度も往復しました。

 住む処は、筑波山の見える場所がいい。あたり一面は緑に囲まれて風が吹きぬける場所にしよう、茨城へ向かう電車、水戸線の中でそう決めました。

 

 当時、東京で通っていたヨガ教室で講師の募集をしていたので、そこからご縁を頂き、晴れてヨガのインストラクターになりました。

 それを機に6年間務めた営業職を辞めました。

 激戦区で修業を積んで茨城に行くぞ!

 と腹を括った日でもあります。東京で週に何本かのレギュラークラスを担当しながら、合間の時間やお休みの日は東京と茨城のヨガ教室とヨガスタジオに片っ端から通ったり、セミナーに参加したりしながら教室開業の為の勉強や練習に明け暮れました。

このころからSNSを始めたり、ホームページを作る為に超苦手なパソコン作業も少しずつ初めていきましたが……今までに習慣に無かった苦手な分野をいちから始めるのはやっぱり辛かったです。

 もちろん収入の不安はありました。

 東京でヨガインストラクターとして活動していた私の収入は営業時代の半分にも満たなかったと記憶しています。

それでも、私には茨城県で生きていけるという自信がありました。

 仲間の存在とおばあちゃんのお野菜の美味しさのおかげです(*^^*)

 

 大丈夫、身体一つでいい、この手、この足、この声、この身体、そして心があれば生きてゆける。そう思って東京を発ちました。

見よう見まねで始めた農業、茨城での新しい生活

 茨城県に来てからはめまぐるしく毎日が過ぎていきました。私を含めた孫3人、祖母に教えてもらいながら見よう見まねで畑のお手伝いをはじめました。

 朝は3時か4時に起きて、新聞配達にまぎれてヨガ教室のビラを配り、午前中は畑のお手伝いをして、午後はホームページを作成したり、ヨガ教室の準備と練習、教室運営の勉強にいそしむ毎日です。また、お野菜作りの本を読みながら農業の勉強を深めましたが、畑ではたまにおばぁちゃんの指示と本に書いてあることが違くて戸惑ったり、感心したりもしました。

 連日睡眠不足で泥だらけの日々ですが、

 もう毎日が楽しくて楽しくて!!!!!!

 東京で働いていた時のほうが、費用対効果で言えば効率が良かったかもしれません。でも、私の精神は東京で働いていた時より遥かに自由だったんです。

 営業職に就いていた時に感じていた違和感はさっぱり無くなっていました。不思議な感覚です。東京と比べてしまうと交通の便も悪く、流行りの物やお店もありません。それでも心は満ちていくのです。営業時代に60キロ近くあった私の体重は自然と45キロの適正体重へと戻っていました。美味しい野菜と運動(ヨガと畑仕事)のおかげですね!

 

 そんなある日、大事件が起こるのです!朝起きたら落花生畑がめちゃくちゃになっているではありませんか! 畑はほじくり返され、葉っぱは食いちぎられていました。

 あ、あ、あんなに大事に大事に育てていたのに……!(´;ω;`)

 毎日苗に話しかけながら世話をしていた子たちです……。

 夏前に植えた落花生、収穫直前の秋口の出来事です。収穫まで後僅かだったのに!

 

 イノシシの仕業でした。山裾にある私たちの畑はイノシシやタヌキの格好の餌場なのです。経済損失にして約数十万円……。これは安いほうだと言われました。

しかし、お金ではないのです!

 毎日真心こめてお世話をしていたお野菜たちが荒らされる悲しみ、悔しさ。胸が張り裂ける思いです。よく見ると、私たちの畑だけでなく近隣の畑は全部やられています。皆、害獣被害対策にお金と時間を費やしているのです。

 大きな畑に鉄の柵をめぐらせたり、電気柵をめぐらせたりするのは大変な作業です。畑の大きさにもよりますが、費用は数万円~十数万円ほどかかります。そして柵が壊されたり、倒れたり、抜けられたりしないように日々のメンテナンスも必要になってきます。害獣被害対策にお金や時間、体力が追い付かない小さな農家さんたちの中には廃業してしまう方も少なくはないのです。

自己紹介 ~東京で営業をしていたのに、気が付いたら茨城県の猟師に!?~
自己紹介 ~東京で営業をしていたのに、気が付いたら茨城県の猟師に!?~

写真左/放棄されたボーボーの畑 写真右/柵を巡らせた畑

 お年寄りの農家さんは耕作放棄して廃業してしまう方も。

 周囲に柵を張り巡らすのは大変な作業です。

 調べてみると、茨城県の害獣被害総額は、なんと6億円を超えていました! 全国の被害総額はなんと164億円にも上り、年々増加しているのです(平成29年度/農林水産省調べ)。そして、その害獣を駆除してくれる”猟師”は年々減少傾向にあり、その60%以上は60歳以上なのでした。

若い世代の猟師がかなり少なくなってきているそうです。

 10年後は一体どうなってしまうのでしょうか?

 私たちの答えが出ました。

 おばあちゃんが一人で守っている畑を守るために”猟師”になろうと決めました。孫全員で力を合わせればきっと何でもできる! そして孫全員でイノシシを駆除する為の“狩猟免許”をとり、狩猟を始めたのでした。

終わりに。想いをのせて

 今日は《東京で営業をしていた私がなぜ茨城県で猟師になったのか》を綴らせて頂きました。『おばあちゃんの野菜が食べたい! そして守りたい!』。理由はいつだってすごく単純です。

 次回は今回出てきたワード“猟師”について、そしてその存在意義についてもっと深く掘り下げていきたいと思います。

 私の人生は茨城に来て確かに変わりました。あのまま東京に住んでいたら今頃何をしていたのだろう。きっと何も変わらず違和感の中で生き、疲弊していたのだと思います。今、毎日は奇跡に満ちています。

―この奇跡を誰かに伝えたい。

 この連載を通して私の、私たちの想いが、少しでも誰かに繋がり、そして何かのお役に立てれば幸いです。

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