■お盆は逆さ吊りの苦しみ?
8月15日前後の休みをなぜ「お盆休み」というのか?――お盆と...の画像はこちら >>
 

 8月に入って1週間も経つと「お盆休みの帰省ラッシュのピークは……」といったニュースが流れるようになってくる。ああ、夏本番だな、と思われる方も多いと思う。

 しかし、なぜ8月の休暇のことを「お盆」と呼ぶのだろうか? 先月アップした「7月はもう一つのお正月?――七夕の隠された意味」でも呼べたように、お盆は本来7月の行事なのだ。

 8月にお盆が行われる理由を述べる前に、お盆とはなにかを説明しておこう。

 お盆は「盂蘭盆(うらぼん)」の略である。これは『盂蘭盆経』というお経のタイトルでもあるのだが、実はどういう意味かはっきりしない。逆さ吊りを意味する「ウランバナ」の音写だとする説が有力で、お経では「倒懸(とうけん)」と意訳されることもある。

 お経のタイトルが「逆さ吊り」とは穏やかではないが、要は死者が受ける逆さ吊りの苦しみを救ってくれるお経ということである。お経の内容を要約すると次のようになる。

 釈迦の高弟の一人、目蓮(もくれん)が神通力で母の転生先を探ってみたところ、餓鬼道(地獄に準じる世界で、ここに転生した者は常に飢えに苦しまなければならない)に堕ちて苦しんでいることがわかった。なんとしても救い出したいが、目蓮にはまだそれだけの力はない。そこで釈迦に相談することにした。すると釈迦は、雨期の間僧院に籠もって修行している僧たちに食べ物などを供養すると、その功徳によって餓鬼道に堕ちた母は救われると教えた。

 つまり、「逆さ吊り」とは餓鬼道に堕ちた者が受ける苦しみのことなのだ。

そして、僧院に籠もって修行している僧へ食事などを供養することが盂蘭盆会(うらぼんえ)であり、お盆というわけである。

 盂蘭盆会は飛鳥時代に日本に伝わった。当初はお経に説かれるように、僧への食事の供養が行われていたが、しだいに金品をお寺に布施して先祖供養をしてもらう行事になっていった。盂蘭盆会は7月15日に行われるものとされたが、「7月の行事はもう一つのお正月?」でも述べたように、7月はもともと先祖の霊を祀る時期であったので、こうした伝統行事と一体化する形で全国に広まったのである。

 こう書くと「じゃあ、うちの先祖は餓鬼道に堕ちてないからお盆をやる必要はないだろう」と言う人がいるのだが、盂蘭盆会は餓鬼道に堕ちた者が身内にいる人専用の行事ではない。

 餓鬼に堕ちた人を救うための布施を行うと、その善行により功徳(霊的にプラスとなる要因)が生じる。それを自分のために使うのではなく、先祖などに振り向ける(これを回向〈えこう〉という)ことによって先祖の霊は早く仏の位に至れるといった利益が得られるのである。だから、お盆は先祖供養になる、というわけだ。おわかりいただけただろうか?

■なぜお盆は月遅れで行われるようになったのか?
8月15日前後の休みをなぜ「お盆休み」というのか?――お盆と七夕とねぶたと竿灯祭の意外な関係~8月の行事を学び直す~
 

 そこで今回のテーマである「なぜ8月の休暇がお盆休みと呼ばれるのか?」であるが、結論を先に言ってしまうと、お盆は雛祭りや端午の節句などとは違い、月遅れ(行事を1月遅らせて行うこと)で行う地域が多いからだ。

 さらに言えば、かつては夏の休みは故郷に帰ってお盆行事に参加するものであったことがある。現在では故郷以外の場所に旅行する人が多くなっており、故郷に帰ってもお盆には関わりなく過ごすことも少なくないようだが、「夏休みにはお盆行事に加わって先祖の霊をなぐさめるものだ」という民族的な意識がまだ残っていて、それが「お盆休み」という言葉の使用になっているのだろう。

 

 では、お盆はなぜ月遅れで行われるのか?

 明治6年(1873)、新政府はそれまで使われていた太陰太陽暦(たいいんたいようれき、月の運行を基にした暦で太陽の運行を参考に補正してある、いわゆる旧暦)を廃し、太陽暦を公式の暦とすることを決めた。

 これによって庶民の生活は大きな混乱におちいった。新暦と旧暦では1か月ほどのずれがあったからだ。これでは行事によっては季節感が違ってしまう。たとえば、旧暦の3月3日は桃の花盛りであるが新暦ではまだ寒くつぼみばかりだし、七夕も秋の行事のはずが新暦では梅雨まっ盛りになってしまう。

 このため当初は新暦と旧暦が混用されていたが、新暦が定着していくにつれて行事も新暦で行われるようになっていった。しかし、中には新暦に移行しにくいものもあった。とくにお盆がそうであった。

 というのも、旧暦の7月15日前後は農閑期にあたっていたが、新暦の7月15日前後は逆に農繁期になってしまうからだ。ここから農村部は旧暦もしくは月遅れでお盆を行い、農業とは関わりのない人たちが住む都市部は新暦で行うというねじれ現象が生じた。しかし、都市部の住人も田舎に帰れば農村部の習慣に従うことになるので、夏期休暇は農村部のお盆期間に合わせることになったのだ。

 なお、旧暦ではなく月遅れが一般化したのは、旧暦の7月15日が新暦の何日に当たるかは年によって変わるので計画がたてにくかったからと思われる。

 いっぽう七夕は雛祭りや端午節句と同様に新暦で行われるようになっていった。

このため、七夕とお盆は別の月の行事のように思われるようになってしまった。

■ねぷたやねぶた、竿灯祭は七夕行事かお盆儀礼か
8月15日前後の休みをなぜ「お盆休み」というのか?――お盆と七夕とねぶたと竿灯祭の意外な関係~8月の行事を学び直す~
 

 巨大な燈籠を載せた山車(だし)を引き回す弘前のねぷたや青森のねぶた、46個もの提灯を吊るした竹竿を肩に載せる秋田の竿燈(かんとう)は日本を代表する祭であるが、ほぼ同様の起源をもつ。それは旧暦の7月7日頃に行われていた「眠り(眠た、ねぶり)流し」に由来するというものだ。

 「眠り流し」は合歓(ねむ)の葉や豆の葉に厄や魔障を移して川に流す行事で、その日程からもわかるように七夕行事とされてきた。弘前では子どもの行事として行われていたようだが、大人の行事として行われていた地域も多い。「眠り流し」という名については、悪いことを引き起こす睡魔を除くためと説明されることが多いが、明かりが乏しい時代に睡魔を忌避するのは解せないので、違う意味があったのかもしれない。

 それはともかく、「眠り流し」を起源とすることから、ねぷた、ねぶた、竿燈は七夕行事といわれることがある。だが、その儀礼にはお盆の要素も見られる。たとえば、燈籠(提灯)は盆燈籠の発展したものと思われるし、川に葉などを流すのはお盆の精霊流しを思わせる。

 行事がすべて旧暦で行われていた時代は、7月7日はお盆が始まる頃と受け取られていたので、七夕そのものがお盆期間の一行事と捉えられていた。七夕は中国の乞巧奠(きこうでん)に由来するものであるが、庶民にはお盆の始めに行う行事として受け止められたのである。その結果、ねぷた、ねぶた、竿燈といった七夕行事にお盆の要素が混じり込むこととなった。

 おそらくほかにもお盆の要素をもつ七夕行事はあちこちにあったのであろう。しかし、ねぷた、ねぶた、竿燈のように独自の行事として発展をしたため、新暦への切り替えでお盆との関係が薄れると生き残ることができなかったのだろう。

 ねぷた、ねぶたの燈籠や竿燈の提灯は、先祖の霊を出迎えるための迎え火の意味もあると思われる。

 いっぽう霊を送り出す時に焚かれる送り火は京都五山の送り火が有名だ。また、静岡県の富士川河川敷で行われる南部の火祭なども送り火が起源だとされる。両岸2キロにわたって並べられた108つのたきぎの山「百八たい」に火が灯される祭であるが、最近は3000発の花火が上げられるイベントとして知られているようだ。

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