世界には昔から様々な埋葬習慣がある。現在の日本では火葬して墓地に納骨し、法事の時や故人への思いを偲ぶ際に、お墓を訪れるといったことが主流だろう。
しかし人類史においては風土環境の違いから、古今東西多様な埋葬習慣と埋葬文化があったのは言うまでもない。
春夏秋冬や山川草木の変化、火山噴火や地震、津波、台風といった自然災害と、環境の激変がもたらす風景のバリエーション。
そうした自然環境の中で、私たち日本人の諸行無常といった人生観や死生観、埋葬文化といったものも自然に形成されてきた。現在の日本人があたり前と考えている火葬にしても、それは死者に対する冒涜であり、遺体の破壊行為であると見る文化もある。20世紀初頭のドイツの人類学者レオ・フロベニウスは、「人類はいつも、死者への尊敬と恐れの間で動揺している」と言う言葉を残している。
そして、あらゆる葬式の習慣も「死体の破壊と保存との間を動揺している」と言っているのだ。
ある日突然、別れ難い大切な家族を失って呆然とする時、私たちはその死を認めたがらず、ずっとそのまま何事もなかったように、これまでの生活を続けようとする思いがある。
幼い我が子を亡くした母親が、その子をずっと抱き続け、これまでと同様食事を与え、語りかけ、子守唄を歌ってやる。
そんな悲痛な母親の姿を見る時、周囲はひとまず傍観するしかないこともあるだろう。
しかし季節によって、あっと言う間に腐敗が進み、病原菌の発生や悪臭を放ち始める日本の気候では、いずれ誰かが母親を諭し、醜く変化していく前に遺体から引き離し、保存や管理のしやすい状態へと手を加えるしかない。
そのために愛しい子供の遺体であっても、火葬という破壊行為をせざるを得ないのだ。
もっとも日本の埋葬習慣は、元来土葬が主流だったが、これにしても死体を土に埋めることで、様々な虫や細菌、バクテリアなどが徐々に遺体を蝕み、骨と化して行く道をたどる。つまりゆっくりとした破壊行為には違いない。
ところが世界には、死後もずっとそのままの姿で形をとどめ、何百年、何千年と遺体が腐敗や破壊から免れるような環境も存在する。
そのひとつが極端な乾燥により、死後もずっと保存状態が続いてミイラと化した遺体である。
そのようなミイラが自然にできる乾燥気候の地域では、自ずと死者への思いや死生観、埋葬習慣といったものも変わらざるを得ないだろう。
古代アンデス文明では、ミイラは死後もずっと家族と共に暮らし、食事を共にし、語り合ったりする習慣があった。
時にミイラは家族の相談相手となり、死後もずっと家族の中で存在し続けるのだ。
そしてまた同様に乾燥砂漠地帯として有名なエジプトでも、独自のミイラ文化が3000有余年にも渡り続けられてきた。
人々は昔から「不死」への願望を抱き続け、「復活」や「再生」、そして肉体が消失した場合には、
「魂の不滅」といったものを信じてきた。
人間は誰でも、いつ死ぬかわからない。
エジプトにおけるミイラは、遺体をミイラ化することによって、死者がその死後も、個人的な“永遠の命”を得るための拠点として作られた。
それにより生前叶わなかったことや、苦しかった病などからも逃れ、平和で幸福な世界があることを願ったのだ。
ミイラの定義はそもそもどんな状態を言うのか
ではそもそもミイラとは何か。
ミイラの定義のひとつに、1958年に刊行された上野正吉著『新法医学』がある。
それによると「死体の乾燥が腐敗による分解速度より早く、かつ高度に進むと、死体の乾物ができあがる。これがミイラであり、体水分が60%以下になると細菌類の繁殖が阻止され、さらに50%以下になれば完全に止まる」とある。
つまり極端な乾燥気候の環境では、条件さえそろえば人間の死体は自然にミイラとなる。現実に中南米やエジプト、中国内陸部などの乾燥砂漠地帯では、死体がそのままミイラとなった例はいくつもある。
また砂漠地帯とは違うが、ヨーロッパや世界の泥炭湿地帯でも、偶然によりミイラができる条件がそろう場所がある。
これらは強酸性の水や低温、酸素の欠乏といった諸条件のおかげで、皮膚や内臓が保存されているのだ。ただし泥炭に含まれる酸が、リン酸カルシウムを溶かすため、骨の保存状態はあまりよくないものが多い。
そしてまた日本のように、仏教者が即身仏として、そのまま地中に入りミイラ化する例もある。

偶然によりできたものや、「屍し蝋ろう」と呼ばれ、水中または湿潤の土中で、死体の脂肪が化学変化を起こし、腐りにくくなったことで残っている死体なども含めてミイラとしている。
いずれにせよ人類は、このような遺体やミイラを目撃しながら、それぞれの地域文化の中で死生観や人生観を形成してきたということなのだろう。