1950年代のムード・ミュージック界隈には、モデルの美女度だけでなく照明に凝った美女ジャケ、セットにお金をかけた美女ジャケ、ロケーションにこだわった美女ジャケなど、制作側の資金と熱情を感じるものがたくさんあった。
本連載の第3回目で取り上げた「夜の林で密会している」風なジャッキー・グリーソンの「Night Winds」などは、ロケーションも照明も凝りに凝って一級だった。だいたいが「夜の林のなか」という難しい設定で、ネグリジェの透け具合まで完璧にコントロールしているあたりは、もうプロ中のプロ。さすがCapitolレコードの制作部! と唸ってしまうのだ。
これが60年代以降のイージーリスニングの美女ジャケとなると、即物的に美女を撮っただけというのが増える。カメラに正面向いて微笑んでいるだけ、せいぜい金髪が風に揺らいでいるとかその程度の演出。イージーリスニングの巨匠、ポール・モーリアのアルバムなど、とくにそういうのが多かった。これは芸がないでしょ! と言っても通じない。時代の趨勢がそういう気分だったのだから。
なぜかと言うと50年代の物語性のある凝った演出は、ユース・カルチャーが台頭してシンプルなモダン・テイストが好まれるようになるにつれ、古臭く見えてしまった。ネグリジェ姿で身体をくねらせ品を保ちながらも、ライティングに凝って淫靡な風情が醸しだされる。
それは60年代のファッション・フォトがシンプルになったのと同じ心理だ。スウィンギン・ロンドン時代の花形フォトグラファー、デヴィッド・ベイリー(1967年の映画『欲望』の主人公のモデル)は、モノトーン写真を好んだし、スタジオでの照明はほとんど一灯で撮影した。50年代までに洗練と技巧の極みに達した照明は、シンプル・モダンの美学に簡単に乗り越えられてしまったのだ。
そんな時代になるちょっと前、ムード・ミュージックには「写真合成」の巧みなアルバム、というひとつのジャンルがあったように思う。
冒頭の1枚。ザ・サーフメンの「the sounds of Exotic island」は、ユリ科のスターゲーザーらしき花から生まれ出る黒髪の裸女だ。神秘的というか、なにやら不気味さも漂うが、バンブー書体をタイトルに用いているように、内容は当時流行のエキゾチック・サウンドだから、意味不明な神秘さもインパクトがあったのだ。花も背景の羊歯の葉とは別に撮影して合成している模様。
マーティン・デニーと並ぶエキゾ・ミュージックの立役者、アーサー・ライマンの「THE LEGEND OF Pele」は、溶岩のなかの金髪美女。ドロドロの溶岩流からいま生まれでるかのようにポーズを取った裸女というのがなんとも迫力だ。
タイトルにある「Pere(ペレ)」とは、ハワイに伝わる火山の女神のことで、溶岩流から生まれたわけではないが、この写真ならいかにもペレ出現の瞬間のようでイメージは強烈だ。
そしてどちらのアルバムも美女と背景の合成の仕方が秀逸だし、うまい!


当然のことだが、今のようにフォトショでサッと加工できる時代ではないから、写真合成は印刷所の製版技師が技を凝らした。美女の写真はスタジオで撮り、別に背景写真を用意し、それをデザイナーが印刷指示をして、製版技師はうまく馴染んだ合成写真をつくりだした。
60年代に入るとコラージュ技法が再流行したこともあって(最初は1910年代)、切り抜き合成が増えて、50年代の凝った合成手法は流行らなくなってしまった。これも冒頭に書いたモデル撮影の変化と同様のモダニズムの流れだった。
美女をモデルにした合成写真の技法は、50年代後半に洗練の極みに達する。ボビー・デューコフの「SAX IN SATIN」の透明感のある合成など出色の出来だ。サテンの布地とサックスと美女がすべて溶け合っている!
■クッキリ浮き立つ波濤の形は女性器そのものではないか!?さて、これらの美女ジャケを見ていくと別のテーマにもたどり着くことに気づくのだ。生まれ出でる美女...立ちのぼる美女...
そう、これは「ヴィーナスの誕生」ということではないか!
このテーマで最も有名な絵は、15世紀のイタリア絵画の巨匠ボッティチェッリの「ヴィーナスの誕生」だろう。だが、貝から誕生する美女という同様のテーマは、古くは紀元2世紀には描かれていたという。それがルネサンスに復活したということなのだ。しかも古典時代からヴィーナスが乗る貝は、女性器の暗喩(メタファー)だったという。まあ、うがって見ればなんとくなく誰もがそう思うはず。
となると「the sounds of Exotic island」のなにやら淫靡な花も女性器、「THE LEGEND OF Pele」のドロドロ! の溶岩も女性器、「SAX IN SATIN」のサックスの「朝顔管」と呼ばれる部分も女性器、すべて女性器の暗喩だと思えてきてしまうのだ。
そこまではディレクターもデザイナーも考えてはいなかったただろうが、人間には「無意識」というものがある。なんとなく「こんな絵柄と美女を組み合わせたらインパクトがある」という、そのインパクトの根源は意想外の光景(花や溶岩)というだけでなく、見た側も無意識に感じ取る女性器の存在だったのかもしれない。
ボブ・トンプソンの「ON THE ROCKS」は、カクテルグラスのなかでポーズを取る水着女性。案外、簡単に思いつきそうな組み合わせだが、似たような合成写真のアルバムはほとんどない。これも「ヴィーナスの誕生」の一種だろう。海ではなくカクテル。まあ、男に都合のよいイメージではある。
ネルソン・リドルの「Sea of Dreams」は、水の上ではなく水中の裸女。となると、これは子宮の羊水のなかにいるイメージではないか! ヴィーナス誕生の、その手前の情景なのだ。いやはや、美女ジャケをひたすら「解読」していくとさまざまな仮説を立てることが可能で面白い。というよりもこういう解釈自体、業が深いというべきか。
ちなみにこのジャケは水中写真と美女写真を別撮りしたように思えるが、あまりにも自然な合成で、いわゆる「切り抜き合成」のようにはまったく見えない。それは前記したアルバムのどれにも言えることで、当時の製版技術の巧みさに唸らざるをえない。口紅が真っ赤なのも製版時につけたもの。


お気づきのように掲載した美女ジャケは限りなくヌードに近いが、絶妙に乳首までは判別できない写真だ。1950年代までのアメリカでの検閲はことのほか厳しく、乳首の露出などは犯罪覚悟の地下出版以外ありえなかった。「コムストック法」という出版物に関する検閲と「ヘイズ・コード」という映画に関する検閲が機能して、エロティックな表現はがんじがらめにされていたのだ。
拙著『美女ジャケの誘惑』に関して、もっと裸女のエロなものがあったはずだと、みうらじゅん氏の別の文脈の本を例を挙げる批評もあったが、これは1950年代当時の検閲事情を理解していない話だと思う。1960~70年代の日本のエロジャケとは規制も含めて別の世界なのだから。
ヴィーナス誕生とイメージがつながるのかどうか微妙だが、アート・ペッパーの「Surf Ride」は、サーフィンをする女性のイラスト。おお、この波間は女性器そのものではないか! と言ってしまっても、ここまで読んでくださった方は許してくれるかもしれない。
この下手なイラストの美女ジャケ(?)アルバムが、アート・ペッパー作品のなかでもとりわけ高値になっているというのは、世のジャズ好きの人たちがいかに美女ジャケものに飢えているかを表しているように思う。筆者としては、ジャズにこだわらずにムード・ミュージックにまで手を広げれば、もっと素晴らしい美女ジャケたくさんありますよ、と言いたいだけなのだが。
この「Surf Ride」は、60年代的なデザインに思えるかもしれないが、1956年の作品。アメリカの50年代とは、古典的な女性美からロマンティシズム、そして行動的なモダニズムまで包含してじつに幅広い。しかも、これが検閲が異常に厳しかった時代の産物だというのがまた面白い。

ところで、これらの作品をどうやって聴けるのか、って?
レコードの入手は難しくともSpotifyなどのサービスで案外聴ける。今回掲載作品のなかでは、ザ・サーフメン、アーサー・ライマン、ネルソン・リドルの3作品は音楽的にもオススメですので、ぜひ探してみてください。