女好きだったか!? 恋愛に一途か? バカだったか? 賢かったか!?
誕生日が2説あるショパンのホントの性格を比較する!

 歴史上の人物に迫るには様々なアプローチがあるが、ここでは四柱推命(しちゅうすいめい)という手法を用いて、歴史上の人物がどんな性格であり、なぜ成功したのか(失敗したのか)を読み解く。※四柱推命と用語の説明はページの最後をご覧ください。

 

 今回は、「ピアノの詩人」と呼ばれ、数々の美しい曲を残した作曲家であり演奏家、ショパンを四柱推命鑑定する。

ショパン 【歴史上の人物を四柱推命で鑑定! 第67回】女好き...の画像はこちら >>
ワジェンキ公園(ポーランド・ワルシャワ)内にあるショパン像。

 しかし、ショパンの生年月日は、1810年2月22日とする説と、3月1日とする説がある。2月22日説の根拠は、ショパンが洗礼を受けた聖ロフ教会で見つかった出生証明書によるものである。一方、3月1日説は、ショパンの家族が彼の誕生祝いを毎年この日に行っているということが根拠とされる。ほかにも様々な意見があるが、いずれにせよ、今日までどちらの日付が出生日なのかという確実な資料は見つかっていない。

 そこで、今回は資料が語るショパンの性格と音楽性を頼りに、四柱推命によりショパンの生年月日を明らかにしたいと思う。

※「ショパン」というのは姓のため、両親や姉妹が登場することを踏まえると、「フレデリック」とファーストネームでと呼ぶのが適切だろうが、なじみのないと考えられるため、本文でも「ショパン」と呼ぶこととする。

フレデリック・フランソワ・ショパン(1810-1849年)
生年月日: 1810年3月1日あるいは2月22日

■1810年2月22日に生まれたショパン

ショパン 【歴史上の人物を四柱推命で鑑定! 第67回】女好きだったか!? 恋愛に一途か? バカだったか? 賢かったか!?
 

ショパン 【歴史上の人物を四柱推命で鑑定! 第67回】女好きだったか!? 恋愛に一途か? バカだったか? 賢かったか!?

 

知性…様々な分野の知識が豊富で、何かを学ぶことに喜びを感じる。頭の回転が速く、物事を論理的に捉えることが上手

行動力…頭で考えるよりも行動で結果を出す。未知の分野に挑戦する意欲が強く、交渉力や営業力を磨けば成功できる

人脈…さりげない気配りができて誰とでも仲良くなれる。サービス精神が旺盛でコミュニケーション能力も高く人を動かせる。

自立心…他人に依存することなく、自分が信じた道を突き進む強い精神性。リーダーシップを発揮しフリーで活躍できる。

遊び心…楽しいことを企画する等、生活に遊びを取り入れることが自然とできる。芸術面の才能があり、表現力が豊富。

【人物メモ】

〇60%と圧倒的な「人脈」で占められている。コミュニケーションの能力が高く人当たりがよく、l気遣いやさんだったと想像される。また女性が大好きで、恋多き人生を送ったことが予想される。

〇自立心が30%と高いが、「比肩(ひけん)」を持っていることから一匹狼で頑固な職人気質だったことがうかがえる。あまり人の意見は聞き入れず我が道を行くタイプ。

〇行動力10%持っているが、これは命式表で見ると「偏官(へんかん)」に由来する。攻撃的、行動的で野性的な星。「知性」の星も持っていないため、思い立ったら即行動するタイプだったのだろうか。

〇「遊び心」の星を持っていない。そのため、ストイックな性格だったことが予想される。

〇「知性」の星を持っていない。そのため、論理的に考えたり勉強をしたりすることが苦手だった可能性がある。

〇十二運星に「建禄(けんろく)」を持っているが、これは王子様の星でエネルギーが強い。今世で成功することをイメージしていたと予想される。

〇十二運星に「養(よう)」を持っているが、これは幼児の星。周りから人気があり、特に目上の人から引き立てを受けていたことが予想される。

〇十二運星に「死(し)」を持っているが、これは死人の星、つまりスピリチュアル。常に天と繋がっていたのだろうか。

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ポーランド・ワルシャワに、17世紀に建てられたオストログスキ宮殿内にあるショパン博物館。

続いて、3月1日に生まれたショパンの命式表を見ていく。

■1810年3月1日に生まれたショパン

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 続いて、命式表の通変星、蔵干通変星をわかりやすく円グラフに表すと下記のようになる。

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【人物メモ】

〇行動力が40%と高いが、これは命式表に見る「正官(せいかん)」と「偏官」に由来する。「正官」は真面目で几帳面、プライドが高く、責任感がある、お役人さんのようなイメージ。「偏官」は攻撃性が高く、思い立ったら即行動。

〇人脈が30%だが、これは命式表で見る「正財(せいざい)」に由来する。これは上記の「正官」に類似し、真面目でしっかり者の星。コミュニケーション能力が高い。正財は男性にとって結婚の星であり、数多くの恋愛をするよりも一人の女性を大切にしたい一図なタイプ。

〇知性が20%だが、これは命式表に見る「印綬(いんじゅ)」に由来する。「印綬」は知識量が豊富で学校の勉強がよくできるタイプ。真面目。

〇「印綬」と「正財」を併せ持っているが、これは石橋を叩いて渡ろうとする性格。

思ったことをなかなか行動に移せない一面もあったのだろうか。

〇自立心が10%だが、これは命式表に見る「劫財(ごうざい)」に由来する。周りをまとめるのが上手なリーダータイプ。欲しいものはどんな手を使っても手に入れたい。

〇遊び心の星を持っておらず、ストイックな性格だったことが予想される。

〇十二運星に「胎(たい)」の星を持っているが、これは胎児の星。前世の記憶を持っている。赤ちゃんのように好奇心旺盛で飽きっぽい。

〇十二運星に「死」の星を持っているが、これは死人の星で、スピリチュアル。天に動かされていた面があるのだろうか。

〇十二運星に「病(びょう)」の星を持っているが、これは芸術の星。きれいなもの、美しいものが好きだったことが予想される。

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ショパンゆかりの教会として有名「聖十字架教会」。

【2月22日生まれと3月1日生まれの違い】

①女性関係が豊富であったかどうか。2月22日は恋愛好き、女性好きで恋多きタイプ。一方、3月1日は一人の女性を愛し続ける一図なタイプ。

②頭がよかったかどうか。2月22日は知性を持っていないためあまり考えずにすぐに行動に移すタイプ。3月1日は「印綬」を持っており、学校の勉強がよくでき、物事を論理的に捉えるタイプ。

③自分強くを持っていて曲げないタイプだったか、あるいは人の意見を聞けるタイプだったか。2月22日は頑固な職人気質で一匹狼だったが、3月1日は他人に意見に耳を傾け、組織をまとめられるリーダータイプ。

④真面目な性格だったかどうか。2月22日は多少誠実性も見られるがどちらかというと浮気性が疑われるような責任感のないタイプ。一方、3月1日はとっても真面目で責任感が強く誠実性も高い。

⑤何を目標に生活していたか。2月22日はどちらかというと今世にとらわれお金稼ぎに興じた可能性があるが、3月1日は前世と来世のために生きている、今世にとらわれていないイメージ。

以上の5点に焦点を当てて、ショパンの生年月日について考察していく。

ショパン 【歴史上の人物を四柱推命で鑑定! 第67回】女好きだったか!? 恋愛に一途か? バカだったか? 賢かったか!?
聖十字架教会内の本堂左手前の石柱にはショパンの心臓が収められている。

①ショパンの女性事情について

 ショパンは生涯独身であった。しかし、女性と遊んでいた…というよりは一図であり、一人の女性を愛し続けるタイプだったようだ。

 ショパンの初恋は、同じ学院で学ぶソプラノ歌手のコンスタンツィア・グラドコフスカだったと言われる。1829年、ショパンは友人への手紙でコンスタンティアへの恋を打ち明けている。しかし、彼女はモテモテで取り巻きも多かったようで、この恋は成就することがなかった。なお、そんな叶わぬ恋心によって、ショパンの2つの協奏曲(ヘ短調のピアノ協奏曲とホ短調の協奏曲)を作曲している。

 その後、1835年の夏、ショパンはドレスデンで知り合いのヴォンジスキ伯爵一家と会うが、伯爵令嬢であるマリアにショパンは恋をする。数日の滞在後、ショパンは別れ際にマリアへ変イ長調のワルツを贈った。翌年の夏にはマリアにプロポーズし婚約までするが、マリアの両親の反対にあい、その翌年に破談となってしまった。ちなみに、ショパンはこの頃、変ロ短調のスケルツォや、ピアノ・ソナタ第2番の第3楽章になる葬送行進曲を作曲した。

 1836年の秋、マリアとの婚約が破談になる少し前に、ショパンはリストらとの夜会でジョルジュ・サンドと出会った。この女性の存在は多くの人は知るところだろう。サンドは葉巻を吸い、ズボンをはくという、当時においては風変わりな人物で、ショパンは当初「本当にあれが女か?」と話したという。しかし、この夜会後、ショパンとサンドは親交を重ねることになる。二人の仲は一気に深まりパリで共に生活し、夏をノアンで過ごした。なお、サンドとの良好な関係で生まれた作品には、「英雄ポロネーズ」「ピアノ・ソナタ第2番」「24の前奏曲集」がある。しかし、そんな2人の関係にも亀裂が生じる。最初の衝突は1845年の夏。そして、1846年、二人の仲はもはや修復不可能なものとなり結局別れに至ってしまった。しかし、それでもショパンはサンドのことを忘れることはできなかった。ショパンは死ぬまでサンドの髪の束を自分の日記にはさんでいたという。なお、そんな辛い日々の1846年、ショパンは幻想ポロネーズ、舟歌を作曲している。

 生涯独身だったショパンだが、女性好きで手当たり次第に手を出して決めきれなかったというよりは、独身だったというのは結果で、一人の女性と決めて一図に愛し続けるタイプだったと言えるのではないだろうか。恋心が作品に影響を与えているというのは非常に興味深い。

➤恋愛においては、一図に女性を愛するという3月1日説が有力のようだ。

 

②頭のよさについて

 音楽的な才能は小さい頃から持ちあわせていたらしい。母・ユスティナは達者にピアノを弾き、まず長女のルドヴィカに手ほどきした。ほどなくしてショパンも母や姉を真似て鍵盤を触り始めた。その様子を見て、まずルドヴィカが弾き方を教えてくれたが、ショパンはたちまち姉を追い越してしまう。次に彼を教えた母もすぐに本格的な教師の必要性を痛感し、ボヘミア出身の音楽家・ヴォイチェフ・ジヴニーにレッスンを頼んだ。このジヴニーが名教師だったそうで、ショパンは質の高い教えを瞬く間に吸収し、7歳のときには最初の作品「ポロネーズ ト短調」と「ポロネーズ 変ロ長調」を作曲した。前者は出版され、ワルシャワの大きな話題となって新聞紙上でも紹介され、「ワルシャワのモーツァルト」としてあちこちのサロンから招かれて演奏を所望されるようになった。

 学校のお勉強のほうはどうだったかというと、頭の回転が速く学問で困ることはなかったという。もちろん、学校の成績も悪くはなかった。ちなみに、興味があるのは、文学と歴史で、数学、理科、ギリシャ語、ラテン語の授業は退屈でお絵かきをしていたという記録が残る。ちなみに、このお絵かきも完ぺきだったようで、リンデ校長先生の似顔絵を描いている最中、当の先生に見つかり絶体絶命となったこともあったが、先生はなんと「肖像画の出来良し」というコメント付きで返してくれ、事なきを得たという。

➤頭のよさにおいては、「知性」の星を持っている3月1日説が有力のようだ。

ショパン 【歴史上の人物を四柱推命で鑑定! 第67回】女好きだったか!? 恋愛に一途か? バカだったか? 賢かったか!?
聖十字架教会内の「ショパン」の名が刻まれている柱。

③自分を強くを持っていて曲げないタイプだったか

 ショパンは祖国・ポーランドに対して強い思い入れを持っていた。例えば、「ポロネーズ」はフランス語で「ポーランドの」を意味するが、古くはポーランドの農民や庶民階級の踊りであったものが士族階級に広まって洗練され、16世紀ころに宮廷舞曲にまで高まったものである。このようにショパンは祖国に関する音楽を生涯作曲し続けた。

 1830年、ショパンはウィーンへの旅行中、「ポーランドで11月蜂起が勃発した」という知らせを受けた。この時祖国への強い郷愁を抱いたショパンだったが、家族に説得され、祖国・ポーランドに戻ることを諦める。その後彼はパリへ移り、「パリで最も著名な者の一人」として認めらた。生涯パリで生活することとなるが、祖国・ポーランドへの思いは非常に強かったようだ。フランスとポーランドの関係を思うと非常に難しい状況であったが、ショパンは死の直前、姉のルドヴィカに対し、遺体は母国に埋葬して欲しいと願う。遺体はパリに埋葬されるが、心臓は彼の願い通りに取り出され、アルコール漬けにされてガラスの瓶に入れられ、ワルシャワの聖十字架教会まで運び込まれた。今も聖十字架教会に彼の心臓が安置されている。

 ちなみに、1944年8月のワルシャワ蜂起で、この聖十字架教会もドイツ軍との戦闘場所となった。教会に立てこもる蜂起軍にドイツ軍は砲撃を加えた。しかし、この時奇跡が起きた。ドイツ軍の中にショパンの音楽を愛する将校おり、一時休戦を申し入れてきたのだ。お蔭でショパンの心臓が入れられたツボは持ち出され、一時ワルシャワ郊外へ運び出された。そのため、事なきを得て、現在も聖十字架教会に心臓が安置されている。

 ショパンの祖国・ポーランドへの強いこだわりを見ると、一匹狼で我が道を行くという強い思いを持っていたと考えられる。

➤こだわりの強さは、「比肩」に由来すると考えられ、2月22日説が有力と言える。

 

④真面目だったかどうか。

 ショパンはこまめに日記を残している。また、恋人や友達に対しても細かいところまで気遣い手紙を送っている。非常にまめ、つまり真面目な人物だった可能性がある。

 また、両親の影響もあるのだろう。7歳の天才児として注目を浴びたショパンには様々な出演依頼が舞い込んだが、父・ミコワイは、ギャラなしの慈善演奏会にしか息子を出演させなかった。父はフランス語教師と知的な人物であった。教師としての名声が高まるにつれて、ワルシャワの文化人、学者、教育者、芸術家たちが家に集まるようになっていたと言われ、ショパン家の客間はサロンのようになっていたことが予想される。

 両親が幅広い分野の教養を身に付けていたということを踏まえると、モーツァルトやベートーベンとはずいぶん違う家庭環境にあったと考えられる。彼はもともと真面目だったのか、家庭環境が彼を真面目にさせたのかはわからないが、いずれにせよ、真面目であったことは確かなようだ。

➤真面目さから見ると、3月1日説が有力と言える。

 

⑤何を目標に生活していたか

 ショパンは、同時代の作曲家であり音楽家であるリストと比較されることが多い。高い音楽性を持ちながら両者は異なる点が多い。例えば、リストが肉食系だとすると、ショパンは草食系に例えられる。リストは常に称賛を求め、大ホールに大勢の客を集めてワーキャーされるのが好きなのに対し、ショパンが残した曲は少人数のファンを集めたサロン風のものが多く、生涯に残した曲の91%がピアノ曲。ショパンは自分の作りたい曲を作り続けたのだろう。また、リストは浪費家で女性関係が激しかったのに対し、ショパンは堅実で女性に対して一図だった。

 リストと比較してみると、リストは今世に執着し今世での成功を望んでいたのに対し、ショパンはあまり今世にこだわりがなかったと言えるかもしれない。前世や来世の自分にイメージを馳せていた可能性が高い。

➤ショパンは今世にはあまり執着をせず、前世、来世に目を向けていた可能性があり、この点で、3月1日説が有力と言える。

 

 以上、ショパンの生年月日について、2月22日か3月1日かを検証してきたが、全体を総合して考えると、3月1日が有力だということが明らかになった。つまり、女性に対して一図で、頭がよく、今世にこだわらずに生きたいたということだ。

 しかし、一見、ショパンには2月22日生まれの要素も見て取れる。例えば、ショパンは見栄っ張りで見た目に気を遣い、自家用馬車を持っていたという。しかし、本来ショパンは真面目な性格。それを隠すように行動していたと考えていたらどうだろう。自分の真面目で責任感の強い、ある種面倒くさい部分をあえて隠そうとしていたと考えると、その行動は理に適う。

 余談であるが、つい先日ポーランドに行ってきた。私の勝手なるイメージであるが、ポーランド人は日本人の気質に近いと感じた。ポーランド人はこれまで不遇な立場でありながらも他国に対して批判することなく、自国に対して愛着と誇りをを持っている。今回は、ワルシャワとクラクフを訪れたが、各所にショパンの曲が響き、ポーランド人全てがショパンを誇りに感じていたそう考えると、ショパンの生年月日等、もはやどちらでもいいのかもしれない。しかし、。ショパン自身が自由を手にし、来世を恙なく過ごすことができたらこれほどうれしいことはない。

■四柱推命とは?

古代中国で生まれた「過去、現在、未来」を予見する運命学のひとつで、陰陽五行説(いんようごぎょうせつ)をもとに、人が生まれながらにして持っている性格、能力、素質を理解し、その人の努力や経験で変わる後天的な運命までも予測することができる。
具体的には、生まれた日(生まれた年・月・日・時間)をもとに命式表(めいしきひょう)を作成し占っていく。なお、ここでは生まれた時間は鑑定に含めていない。
「国史大辞典」に記載されている生年月日を、「和洋暦換算事典」を用いて現行暦に換算し鑑定している。

■用語説明

日柱の干支:その人の本質を表す重要な部分

主星(しゅせい):月柱の蔵干通変星で、その人を表す最も重要な星。主に仕事運を表す。

自星(じせい):日柱の蔵干通変星で、その人のプライベートな部分の性格を表す重要な星。

【参考文献】
「決定版 ショパンの生涯」バルバラ・スモレンスカ・ジェリンスカ 音楽之友 (2001)
「ショパン 愛と追憶のポーランド」アルベルト・グルジンスキ アントニ・グルジンスキ ショパン (2006)
「ショパン その生涯」青澤唯夫 芸術現代社(2010)
「ショパンを」
「ショパンをめぐる女性たち」荻谷由喜子 ショパン (2010)

【Special Thanks】
總水とおま様
高雄敦子様

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