テーマは『大和の何がスゴかったのか』。「大和」が世界に誇る日本の最高傑作たるゆえんとして氏が挙げる「大和の3つの世界一」とは? ①世界一の主砲 ~46センチ砲の脅威~
「大和」は当時、世界で建造された戦艦の頂点であった。
第2次世界大戦(太平洋戦争)に就役した戦艦数は80隻※、主砲門数は744門に及んだが、その頂点に立ったのが「大和」「武蔵」に搭載された46cm(18・11インチ)砲である。
※1936年以降の新式戦艦29隻と1936年以前の旧式戦艦51隻計80隻となる。
「大和」「武蔵」に続く8種類の砲の口径は
41cm砲……長門型戦艦「長門」「陸奥」16門
40.6cm砲…米戦艦アイオワ級4隻を含め13隻、英国戦艦ネルソン級2隻
38cm砲……ドイツ海軍ビスマルク級2隻ほか23隻
36cm砲……24隻
34cm砲……3隻
32cm砲……4隻
30cm砲……3隻
28cm砲……2隻
となっていた。46cm砲がいかに巨砲であったか窺い知ることができる。
「大和」主砲の「限界」発射弾数である命数(砲身の寿命)は200発。これを超えると弾丸の弾道が狂ってくる。
砲身は発射毎に発生する高熱ガスのために膅面(とうめん)を摩損し、毎回少しずつ精度を不良させる。さらに、施条(「大和」の場合72個)の摩耗量がある一定限度に達する時は、著しくその精度を不良にさせるだけでなく、あるいは膅発(砲身内での爆発)の原因となる。
ちなみにこの限界に達したものを「命数に達した」といい、この限界に達するまでの射撃弾数をその砲の命数と称した。そこで傷ついた内筒だけを新しく交換する方法をとっていた。
「大和型」の主砲の名称は、94式40センチ砲と称し、膅面直径46センチを軍機(国の最高機密)として秘匿した。九四式は、皇紀2594(昭和9=西暦1934)年に兵器として採用されたため、その下の桁の数字をとり40センチ砲と呼称したのである。皇紀とは、初代神武天皇が即位したとされる年を元年とした日本の紀年法だ。
なぜ「大和」に18・11インチ(46センチ)砲が搭載されたかの理由は、16インチ(40・6センチ)砲弾に比較して弾量で46%重く、射程2万メートルの落角で16インチ砲の17・3度に対し16・5度、弾速490m/秒に対し、522m/秒と弾道性に優れていることにあった。
対艦用弾丸の重量は1・46トン、名称は九一式徹甲弾、その着色弾を一式徹甲弾、対空弾は三式焼霰弾と称した。

前部6門、後部3門を同時に同一舷、同一方向に発射すると、約8000トンの反動力が生じる。そのため、船体その他の強度不足の部分があれば、湾曲し、破損する部分が生じる恐れがあった。
そのため船体の中心線の両側に約1m間隔で、前部と後部砲塔間にわたりバーチカルキール(竜骨)が平行に2列設けられていた。また、2列のバーチカルキールの頂上に、船体中心縦隔壁が設置されていた。
主砲を発射した際、砲口から伝播する強大な爆風圧力の強度は、ボートを破損させ、人間の被服を破り一時朦朧とさせる。甲板開孔部は、この圧力侵入の少ない箇所にまとめ、かつ丈夫に造られた。その結果、露天甲板は大変にすっきり、広々とした。
米軍第1次攻撃隊:第1群(空母2隻、軽空母2隻)と第3群(空母3隻、軽空母2隻)から発進した222機(空母1隻の38機は目標に達せず、その他3機はトラブルで途中帰還)、第2次攻撃隊(空母2隻、軽空母1隻)から発進した107機(トラブルで2機途中帰還)が海上特攻隊「大和」に向かった。

第1次攻撃隊は、ロケット弾112発、爆弾63発、空中魚雷52本を「大和」に集中。
第2次攻撃隊は、爆弾30発と空中魚雷7本で「大和」を攻撃し、とどめを刺した。
米軍の日本艦隊との交戦記録(「大和」の最期)では、作戦中の戦闘報告を分析して空中魚雷19本、454kg爆弾18発、227kg爆弾10発命中との記録を残している。
日本側記録は、被弾6発、空中魚雷10本、至近爆弾無数と記録している。