適菜 今日はここに来る前に、池袋サンシャインの水族館とプラネタリウムに行ったんです。
清水 癒されに行ったんですか?
適菜 というより、政治に関しても少し長い目で見たほうがいいと思いまして。地球が誕生して四六億年ですよね。
清水 ははは。そこまでいきますか。
適菜 そして生命が誕生して四〇億年です。その頃の生命が分派してきたわけで、植物も人間も遺伝子で見ると、遠い親戚です。それで、橋下を分析するときも四〇億年の歴史を参照したほうがいいのかと。橋下が尊敬する昆虫はゴキブリですが、たしかにゴキブリはしぶとく生き延びてきたわけです。人間より圧倒的な能力を持つ生物は多い。鳥は空を飛べるし、魚だって狭い水で泳いでいても壁にも他の魚にもぶつからない。カタクチイワシは密集して泳いでいるのに、決してお互いぶつからない。
清水 生命や宇宙など、適菜さんが長いスパンでモノを考えようと思ったきっかけはなんだったんですか?
適菜 私は以前から二〇年、二〇〇年、二〇〇〇年という話をよくしていました。平成というとでは二〇年ではなくて三〇年になりますが、平成に入ってから構造改革の嵐が吹き荒れ、自民党も変質してしまい、日本が急速におかしくなったという現状があります。それを近代の暴走という側面で考えると、二〇〇年前の近代啓蒙思想の問題がある。その土壌を考えると、突き詰めれば二〇〇〇年前のキリスト教の誕生ということになる。それで、評論家の呉智英さんと対談したら、彼は二〇〇〇年では足りないんじゃないか。アウストラロピテクスまで遡るべきだと。
清水 二〇〇万年前ですよね。
適菜 それに対抗するというわけではないですけど、二〇〇万年では足りなくて、どうせなら四〇億年は振り返るべきだと思うようになった。人類だけではなくて魚類も大事だと。
清水 共産党の世界観は、適菜さんほど長くはないですが、一〇〇年単位で見るんです。たとえば、二〇世紀と二一世紀を比べる。二〇世紀には、大きな大国が植民地をたくさん持っていた。戦争も正当な手続きを踏めば合法だった。ところが二つの大戦を経て、小さな国は独立を勝ち取っていく。二一世紀になると小さな国が大国のプレッシャーに動ぜず、団結する風潮が生まれてきた。クラスター爆弾や対人地雷、化学兵器には早くから禁止条約がありまして、日本も批准していますが、核兵器という最大の残虐兵器は、禁止条約の俎上にも載らなかった。
適菜 核保有国が圧力をかけますからね。
清水 ところが、コスタリカやオーストリアといった小さな国々が条約の批准のために努力をして、採択をさせた。だから、今だけを見ると、世の中なんて変わらないと刹那的になりますが、五〇年、一〇〇年という単位で見ると、情勢は変わります。ある人に「日本共産党の支持率四パーセントってすごいな」と言われたんです。
適菜 そう考えるとすごい。支持率が八倍になっている。
清水 日本共産党も国会議員がゼロになったときもあったし、社会党と公明党が共産党を除く「社公合意」を結んだり、ソ連の崩壊で「共産主義は終わった。資本主義の勝利だ」とバッシングも続いたりして、そして中国天安門事件でしょう。その後、なんとか盛り返しましたが、自民か非自民かという二大政党づくりの波にのまれたり。だから試練もありましたが、それでも、どっこい、残っている。
適菜 私は共産主義は一九世紀で役割を終えたと思っていたのですが、それは二〇〇年程度のスパンで歴史を見ているからそう思うだけで、一万年後くらいには人類は共産化しているかもしれませんね。滅亡している可能性のほうが高いけど。
■「ワクワク」という勢力
清水 適菜さんに逆に聞きたいのは、現状を打開するためには、何が必要なのか。あるいは、もう、できないと悲観されておられるのか。絶望せずに、読み手に対して希望を与えるようなヒントを出せるのか。
適菜 なるほど。なんていうのかなあ。ちょっと、失礼な言い方になってしまうかもしれませんが……。
清水 気にしないでください。
適菜 だから共産党は信用されないんですよ。
清水 失礼だなあ。
適菜 ははは。「気にしないでください」って言ったじゃないですか。現実をまともな方向に変えていくのは大事なことですけど、先に理想を掲げて、それに沿って現実を否定すると危ない方向に行く。
結局、宗教だったり左翼のロジックはそこなんです。それと政治家はワクワクすべきではありません。日本は「ワクワク」に支配されている。竹中平蔵は「私の改革思想はワクワク感なんです」と述べていますが、安倍も小泉進次郎も小池百合子も橋下も蓮舫も、すぐに「ワクワク」と口走る。
清水 理想は語りますが、青写真を作って、それに社会を結びつけていくという発想は戒めているつもりです。僕たちが目指す世の中は、まだ人類未踏の域じゃないですか。だから、自分たちの頭で想像できないような社会があるかもしれない。奴隷制の時代に、アフリカ大陸から数千万人の黒人がアメリカ大陸に送られて、鉄道や炭鉱で働かされた。南北戦争もありましたが、奴隷制度がなくなったのは一八六五年でしょう。当時炭鉱で働いていた人たちが、黒人差別が解消されて、アメリカの大統領に黒人がなるということを想像できたかということです。もっといえば、士農工商の時代にはサムライに道端で斬られても仕方がなかった。でも、今は社会的に平等な立場で楽しく酒が飲める。
適菜 ちょっと、まぜっかえすようなことを言わせてもらうと、古代ローマに奴隷がいましたよね。でも、当時の奴隷は結構自由だった。カネも使えたし、温泉に行くこともできた。要するに近代のアメリカのような過酷な奴隷制度ではなかった。では、当時の自由な奴隷が、将来の過酷な奴隷制度を予期できたかというと、そうでもなかったわけで。なにが言いたいのかというと、時代の流れとともに世の中がよくなっていくというのは妄想に過ぎないということです。世の中はよくなることもあるし、悪くなることもある。人間はいつの時代でも一瞬で野蛮に落ち込むし、偶然に平和な時代を謳歌する時代もあるというだけの話だと思うんですよ。
清水 自由な奴隷と虐げられた奴隷がいたという話ですが、共通するのはどちらも奴隷ということです。支配する側とされる側。支配のない社会を人類は作れるというのが僕たちの理想。
適菜 まあ、無理でしょうね。支配と被支配の関係はどの社会でも見いだされることです。人は人を支配したいし、人は人に支配されたいんですよ。奴隷の幸福という言葉もありますが、大衆は自由からも逃避する。
清水 ああ、それは言えてる。自由であることのほうがつらい。従属していれば安心できるんだ。
適菜 ほとんどの人間は自由に耐えることができない。心理学者のバリー・シュワルツも、選択肢の多さが幸福度を下げると主張しています。たとえば、多様な医療を選ぶことができる患者の自己決定権は、患者にとってプラスになるのかと。しかし、それはプロである医者の判断より、素人の判断を優先させることになる。結果的に、患者にマイナスになるわけですね。要するに、多すぎる選択肢は選択を困難にするし、常に選択に対する後悔を引き起こす。
清水 深い問題提起ですね。
適菜 だから、権威や教祖を探そうとする。小林秀雄(一九〇二~八三年)が「人間は侮蔑されたら怒るものだ、などと考えているのは浅薄な心理学に過ぎぬ。その点、個人の心理も群集の真理も変りはしない。本当を言えば、大衆は侮蔑されたがっている。支配されたがっている」と書いてますね。ヒトラーはそれがわかっていた。