この連載の第5回目、モデルを使い回す話で複数モデルを使った美女ジャケを数枚、紹介したが、やはり美女ジャケの王道はたったひとりの美女を使ったジャケットだ。ひとりの顔のほうが訴求力は強いし求心性もある。
いやいや、それだけではない。そこに写っている女性が最上の美女であり「このレコードを買えば、あなたはこんな美女を音楽といっしょにモノにできてしまうんですよ」というサブリミナルなメッセージも織り込まれているのだ。
だから音楽は二の次にして、極上の美女をモデルにジャケのデザインも洒落ていれば、筆者のような人間は躊躇せず買いたくなる。あとは財布との相談だけだ。
買いまくっていた2000年頃でも自分なりのディシプリンはあった。まず、3800円以内であること。なぜこの金額なのかは、はっきりしないが、音楽二の次でジャケ買いする上限の「価値」がこの程度、という意識はあった。
お金を積めばなんでも入手できてしまう、というのはコレクター道として面白みがないのだ。ちょっと高いかなぁ? と思ってレコ屋でレジに持っていくかどうか悩んだものは、レコードを出すたびにその光景がよみがえってくる。
思い出深いとはこういうことだ。恋愛と同じで逡巡したこと自体がとても印象深い思い出になる。だってひとりの美女をお持ち帰りするのだから……。
もうひとつ、ピンとこないモデルには手を出さない。とはいっても案外難しい。手ぶらで帰るのが寂しいときは、つい二流っぽいものでも買ったりしてしまうものだ。これは酔ったあと、そのまま帰るのが惜しく場末のキャバクラに入ってしまい、あとで後悔するのに似ている。
そういうちょっと残念な美女は、いくらレコードを聴き込んでもダメで、ほぼヤフオクで手放してしまった。だから拙著『美女ジャケの誘惑』には、二流美女ジャケはほとんど登場しないのだ。数より質です。
そう、ものごとは数より質と思っているのだが、数がものをいう美女ジャケもある。多人数美女! 冒頭に紹介したマイク・シンプソン・オーケストラのモダンなジャケは、実際にはひとりのモデルだが裏表の両面で6つのポーズ。
だいたいタイトルが「discussion in percussion」。「cussion」の語源は「叩く」という意味。だからパーカッションは「強く叩く」ということだ。ディスカッションは「徹底的に叩く」が語源だが、これが「議論をぶつけあう」ことを意味するようになった。
で、ディスカッションはひとりでは成り立たないから、このジャケが複数モデル風なのは、ちゃんとタイトルの意味するところを汲んだ素晴らしいアート・ディレクションなのである。
もっとも、こういうジャケを見て美女ジャケ好きはどう思うかというと「タイトスカート女性が椅子にチョコンと座っているのセクシーだよね」とか、「左右の脚で色違いのストッキングと靴を履いているのはモダンだなぁ」とか、「髪型はやっぱアップでしょ」なんて程度のことだ。
そうそう、音楽のほうはそっちの思考が済んでからちゃんと聴きます的な感じ。
だが、この「批評の対象」にできる感じが多人数ジャケの魅力なのである。それって何かと同じでしょう? と気づくはず。そう「美人コンテスト」とまったく同じ視線、構造なのだ。視姦的まなざし。
美人コンテストは1888年にベルギーで開催されたものが最初といわれる。水着審査が始まったのは1921年の〈ミス・アメリカ・コンテスト〉。そして第二次世界大戦後の1951年にイギリスで始まった〈ミス・ワールド〉は、流行り始めていたビキニ水着での審査を取り入れた。1952年には〈ミス・ユニバース〉が開催。後者ふたつは現在でも世界2大ミス・コンとして有名だ。
そんな50年代のミス・コン気分がよく表れているのが、砂浜セットで水着美人たちが肩からタスキをかけていかにもなバディ・コールの「The Most Recorded Songs of All Time」。タスキに書かれているのは出身国(出身地)ではなく、収録された曲名。なるほどきちんと工夫が凝らされている。

こちらは5人のモデルがポーズを取っているが、裏面でも水着を替え、ポーズを変えてまるで10人の美女がいるかのようだ。人数が多いほどミス・コン気分はいや増すから、これは多人数美女ジャケの大成功例だろう。
そもそもメタリックの紙に印刷しているので光沢感が強烈な印象を残す。美女ジャケでもここまで用紙に凝ったものは他に見あたらない。
多人数美女ジャケというのは、もう少し前からあった。「夜もの」音楽として多数のヒットアルバムを放ったジャッキー・グリーソンの「Music to Rememder Her」あたりがその最初かもしれない。1955年リリースだが、よくよく見ると保守的な50年代のわりにはけっこうエロい雰囲気が漂っている。まあ、グリーソンの美女ジャケものはこの連載第3回目で紹介したように、どれもエロいのだが。

この微妙なエロさの根源は目線とライティング(照明)にある。さすがCaptolレコードの制作部のライティングは一級だ。切り抜きでアタマだけという、やりかたによっては不気味に見える絵柄もCaptolのデザイナーが見事に処理している。やはり美女ジャケのセンスの最高峰はCaptolレコードなのだ。
ところで収められている曲はどれも女性の名がタイトルになったスタンダード曲など。レコード裏表、合計16曲、つまり女性16人の名が記されている。
そして裏ジャケには「香水から笑い声、透明に輝く口紅まで、女性の思い出を呼び起こす無数の事柄のなかでも音楽ほど魅力的で刺激的なものはない。 おなじみのメロディーは、ある女性との過ぎ去った多くの出来事、感情を鮮やかによみがえらせる」
……なんてキャッチも。
ところが翌56年、まるでグリーソン作品をパクッたようなデザインのアルバムがリリースされる。ローレンス・ウェルクの「THE Girl Friends」。なんと11人もの美女がコラージュされているではないか! しかもデザイン的に破綻なく、とてもよくまとまっている。

こちらはそれぞれの女性に名前まで振っているが、収録された楽曲は12曲。洒落たことに冒頭の曲が「The Girl Friends」で、残りの11曲が女性名を冠した曲という仕掛けだ。このジャケは多人数ものの白眉だとも思う。それぞれの違う角度の表情だけでなく、右下にバスタオルを巻いた女性、左上にオール・イン・ワンと覚しきセクシーな女性、とバランスの妙が冴えわたっている。グリーソンの淫靡なエロさが脱色されてしまったような感じだ。
そのまた翌年の57年、ウォルター・シャーフの「DREAMS BY THE DOZEN [for men only]」が似たようなデザインでリリースされる。こちらも雰囲気たっぷりの良いジャケットだが、フォントをよく見て欲しい。

これはもうパクリというしかないでしょう。さすがインディー・レーベルのハシリ、Jubileeレコード。こちらは多人数顔ジャケでの最多の12人!をあしらい、女性名を冠した12曲の収録曲とイメージをつなげている。これもまたグリーソンが始めたことだから、ひとつ斬新な企画がヒットするとその模倣がたくさん生まれるという、どこの世界にもよくあることが美女ジャケ界にも起きていたことの証左ともなっている。
■美女を複数登場させ「オレは女が好きだ!」とド直球なタイトルで主張ところで、ここまでのジャケット、どれも多人数ということは、その背後に「男が女性を選ぶ」という視線が潜んでいたことに気づいただろうか? この連載では、50年代アメリカの保守的な風土についてたびたび触れてきたが、この多人数美女ジャケもそんな保守的な風土の産物といえなくはない。
もっともそれを言ったら美女ジャケという存在そのものが、男尊女卑的なものと批判することも可能なのだろうが、そこを非難しても人生はそう愉しくはない。過ぎ去った美のファンタジーなのだから。
でも正直なところ、この「男が女性を選ぶ」的な視線は、現代的な感覚からはそう居心地の良いものではない。ビリー・メイの「The Girls and Boys on Broadway」は、ビリー・メイさんが美女に囲まれてウハウハ状態だが、なんで、こんなオッサンがそんなモテルワケ? というやっかみも入らないではない。

ブロードウェイの女優が休憩時にスタジオ前の焼き栗売り屋を見つけて買いにきたという設定なのだろう。でも、やっかみ気分は右のふたりの青年の表情がよく表している。ミュージシャンて、ほんとうにモテたがり出たがりが多いのは、いままで筆者もCDジャケットのデザインをしてきて、くさるほど感じてきたことだ。
パンツ・スタイルの美女ジャケが多いジョナ・ジョーンズの「I DIG CHICKS!」は、4人の女性がクレーンに乗ってDig=掘るとかけている設定だが、タイトルの意味は「ヒヨコを掘る!」ではなく、「オレは女が好きだ!」というスラング。

もう身も蓋もないタイトルなのだが、ジョナ・ジョーンズは黒人ミュージシャンである。しかも自身の美女ジャケはどれも白人モデル。しかもふたり、4人と複数モデルなのだから、黒人が白人女に復讐するといったようなニュアンスを感じないわけにはいかない。どれもこれも公民権運動が盛り上がる前の時期、「Black is Beautiful」なんて覚醒的なスローガンもまだ、登場してない時期のものだ。
いやはや「男が女性を選ぶ」目線を探っていくと、ブ男や抑圧された人種/階級のルサンチマンにいき着きそうで、どうにも居心地が良くない。
では、居心地が良いのは? たとえばジョー・ブシュキンの「A FELLOW NEEDS A GIRL」。これまたピアニストのブシュキンが美女に囲まれてウハウハ状態だが、美女たちが並大抵ではない。スージー・パーカー、サニー・ハーネットなど、当時のファッション界のスーパーモデルたちだから、これはもうたんなる夢であってお伽噺なのだ。ブシュキンはスーパーな美女に囲まれて、内心の緊張を隠せないようで、とても「選ぶ」なんて状態ではない。可愛いね。


いや、もっと女性を主役にしてしまったアルバムがあるではないか。レイ・コニフの「's marvelous」はひとりの女性を囲む、彼の楽団の男性たち。美女ジャケにもこんなありようがあったのだ。
彼のアルバムでは他にも「's wonderfull」、「'S AWFUL NICE」が、美女ひとりに複数の男性という構成の写真だ。レイ・コニフは50年代後半からかなりモダンなコーラスを取り入れていたが、ジャケもモダン・テイストの優れたものが多い。そして、この「女が男性を選ぶ」的な視点は、60年代から台頭するウーマン・パワーを先取りしていたように思う。こんな視点もまたモダニズムの産物なのだ。
複数の美女、男性に囲まれた美女のジャケットを見ていると案外、ひとりの美女単体ジャケというのが、芸がないようにも思えてくる。
美女ジャケとは、たんにそこにモデル女性がいれば良いというものではなく、もっと時代感覚やデザイン感覚が研ぎ澄まされて表れたものが、真の美女ジャケなのである。