美女ジャケ収集というのは、性格の悪い美女と深みにハマって堕ちていく恋愛と似たところがある。
古くはアベ・プレヴォーの『マノン・レスコー』なんていうファム・ファタール(男を破滅させる「運命の女」)ものの小説があった。これはアンリ=ジョルジュ・クルーゾー監督が『情婦マノン』(1948)という凄絶な映画にした。
そのリメイクのような『恋のマノン』(1968)は、カトリーヌ・ドヌーヴ主演でファッションがとてもお洒落だった。
こういうファム・ファタールものが好きだから美女ジャケなんぞにハマるのだ、とときどき思うことがある。
『マノン・レスコー』以上に好きなのが、フランス世紀末の耽美派作家、ピエール・ルイスの『女と人形』。もう、美女に恋して地獄の底まで堕ちてゆくような話。どんなに酷い目にあわされても執着してヨリを戻すのだから、男というのは哀れなものだ。
だいたいにして美女ジャケを収集する女性なんて聞いたことがない。「美男ジャケ」などといわれるものも存在しない。
そんな堕ちる話で始めたが、今回は天空に上(のぼ)るジャケの話。勝手に名付けているところの「浮遊ジャケ」というやつだ。
スリー・サンズの「MIDNIGHT FOR TWO」は、夜空を箒にまたがって飛ぶ恋人同士のジャケがとてもセンス良い。1957年リリースだから有名な人気TVシリーズ『奥様は魔女』(1964年放映開始)よりも前につくられたものだ。
では、箒に乗る魔女、いや美女というのは、テーマとしてけっこうあったのだろうか? 最高の美女、ヴェロニカ・レイク主演の映画『奥様は魔女』が1942年につくられていた。ロマンティック・コメディの秀作、いや秀作どころか映画的にも大傑作で、戦火でハリウッドに逃れたフランスのルネ・クレール監督がアメリカの清教徒文化を笑い飛ばしまくっている。
このあたりがアメリカでの「箒に乗った美女」の視覚化の最初かもしれない。
で、TVシリーズの『奥様は魔女』はというと「最も典型的なアメリカ娘」がじつは魔女で、と始まる。魔女が箒で空を飛ぶアニメのオープニングとともに。
夫も典型的、結婚も典型的、となんども「Typical」というナレーションが被さり、ああ、サバービア(郊外)の中流層の典型って、こんな感じね、とうなずかされるドラマだ。
そんなふたつの魔女もの映像の、中間の時期に位置するスリー・サンズのジャケの二人は、とてもティピカルなアメリカの恋人同士に見えてくる。
でも、アメリカの50年代の「典型」が最もヤバいものを内包してきたことは、この連載で何度も触れてきたことだ。
箒が性的なメタファーとなっているのは、中世の魔女狩りの頃からの話。そんな箒ジャケの向こうでは、ハーモニカとギターを主体にしたご機嫌な(ちょっとスペースエイジ風な)ラウンジ・ミュージックが奏でられるが、このジャケは男性が後ろにいるというのが、じつはかなり危うい。
だって、美女を貫く箒の角度って、これ、もろに勃起した男根でしょう?
それに彼は本気で彼女の背中を見て腰に腕を回している。男ならこの姿勢この感じ、ピンとくるに決まっている!
というわけで、のどかでロマンティックに聴こえるスリー・サンズだが、じつはどのアルバムもみんな危うい。
連載第1回目で、彼らの2枚のアルバムを紹介しているが、1950年代半ばというのにどちらもエロいネグリジェ・ジャケ。ところが聴くとスリー・サンズの音楽は、午後の昼寝にぴったりのような明るさとのんびり感。
どうにもねじれている。そのねじれこそ、サバービアの典型的な中流家庭が抱えていた問題なのだ。
トッド・ヘインズの『エデンの彼方に』(2002)なんて、まさに50年代の典型的なサバービアの中流家庭に潜んでいた倒錯性をテーマにした映画だった。ご覧あれ。
一見、ロマンティック。

この1960年リリースの「ON A MAGiC CARPET…」は、別の意味でサバービアの風景を象徴していた。
当時の郊外生活者の「典型」は、ホワイトカラーの物わかりの好い夫……。専業主婦で二児を育てる妻……。妻は夫を立てて何でも従うが、でも財布の紐は握っていて実際にはサバービアの倦怠から抜け出したがっている……。
そんな心情をもろに出してしまったのが「ON A MAGiC CARPET…」だった。
いや、これは独身女性の一人旅、という風な解釈もあるだろうが、当時のアメリカの実相を考えると、トランクに荷物を詰めて自由になりたかった人妻なのだ。だから空飛ぶ絨毯なのだ。
独身女性は街を闊歩すれば、それだけでマジックが起きることでしょう。
次のスリー・サンズの浮遊ものは、翌1961年にリリースされた「DANCING ON A CLoUD」。こういうのを見るとムード・ミュージックには、浮遊ジャケがたくさんあったと思う人も多いかもしれないが、じつのところいたって少ない。

スリー・サンズになぜ多かったのかも不明だが、ともあれ浮遊もの3作目は、なんとなく独身女性に戻った感じ。一番軽やかであることも彼女の独身性を示唆している気がする。
57年の箒ジャケはサバービアのカップルの「夢」であり、「夢のカップル」でもあった。60年の魔法の絨毯は、そんなサバービアの夢が崩壊し、人妻が空飛ぶ絨毯で逃避する。そして61年の雲で踊る女性は、サバービアの倦怠をリセットし、再び男性優位の夢を描いた、そんな感じだ。
スリー・サンズの3作品は短いリリース期間のなかで、アメリカの「典型的」生活の変化を如実に表出してしまったのだ!
■雲のなかの美女、羽毛のなかの美女、それが極楽に見えるのはワケがあった!「雲」。筆者などは「雲」と聞くとジャンゴ・ラインハルトの「ヌアージュ(Nuages)」を一番に思い起こす。18歳のときにこのロマ(ジプシー)出身のジャズ・ギタリストの名曲を聴いて、ロックを捨てマヌーシュ・ジャズのバンドを結成したものだ。ぜひ、Nuagesを検索して聴いてみてください。
そして雲をテーマにした最も印象深いジャケがケン・グリフィンの「LOST IN A CLOUD」。綿を雲のようにして撮影したものの、いまひとつ雲っぽさが出せず、クレパスで雲の線を描いているところがご愛敬。

タイトルは「夢中になってぼーっとしている」というような意味で、何にか? といえば写真のような美女を、ということだろう。
そしてこのジャケ、左下の雲を目指すロケットのような、でもジェットでもなく、ただの爆弾を背負った危険な男こそ、美女に夢中になって我を忘れた(lost in a cloudな)主人公である。
これまたファム・ファタールものか!? まったく男の哀れさときたら! と筆者は我が身を重ねる。
そしてこのロケット爆弾男もまた、屹立した男根そのものであるのは、一目でわかるとおり。連載第4回で、美女ジャケにおける女性器のメタファーについて書いたが、雲のなかの美女の、その雲そのものがここでは女性器ではないか?
天空に浮かぶ女性器。ああ、もし浮遊ものジャケの裏にそんなメタファーがあったのだとしたら……。天空こそはまさに極楽で、なぜ美女ジャケにもっと浮遊ものがなかったのか? と不思議に思う。
ちなみにこの人気があったわけでも売れたわけでもない、いまではレア盤扱いされそうな「Lost in a cloud」の7inchシングルがオーストラリアでリリースされたとき、ジャケは同じテーマの別写真に変わった。

モデルも別人なので、新たに撮影されたのだろうか。よりヌーディになり、リアルになったが、美女ジャケとはそもそも妄想のための「取りつくろい」のようなものと思っている身には、下手なクレパス雲とロケット男のほうが、興趣を感じたものだ。
はっきりと浮遊とか天空を指し示しているものではないが、ポール・ウェストンの「floatin' like a feather」は、羽毛に乗った美女なのだから、浮遊ものと言ってよいだろう。

どうにもエロ目線から抜けられない筆者から見れば、当然のようにこの羽毛は女性器であり、そこに乗ったネグリジェ姿の、いわば半ヌードの女性とは、ほとんど四文字の淫語に近い。
ああ、こんな美しい写真を見ながらも……。
まあ、それを下品とする人が多数だとはわかっているが、リアルにというよりも「観念的」に性を目指した視線なのだから、なんか無色、脱臭された鉱物的なエロとでも思っていただければと思う。
この連載をエロ目線で、などという編集側の要請など何もないのだが、本(『美女ジャケの誘惑』)に書ききれなかったことを掘り下げて書いていくと、なぜかエロな視線にばかりいってしまう。業が深い、とはこういうことなのだろうか?
過日、イベントで「長澤さんの集めてきたものは、どれもオシャレですよね~」と言われたが、なんとなく世の中には、オシャレはエロにはつながらなく、サブカルでリアルなものこそエロの本道、あるいは王道という観念があるように思う。
それはどうでもいいのだが、オシャレといわれるようなもののなかに「隠されたエロ」を見出すほうが、楽しくないですか?
オシャレというなら、ということで最後にほんとうに飛行機に乗って天空に上る、極めつきオシャレなジャケを。アルデマーロ・ロメロの「Flight to Romance」は、いわゆる「エアラインもの」好きには堪らない一枚だ。タラップを降りる美女を見送る機長。

そう、天空に上るような美女を「もの」にするには、飛行機くらい操縦できないとね……などという馬鹿なことを考えたりするから、冒頭に書いたように「性格の悪い美女と深みにハマって堕ちていく恋愛」をしてしまうのだ。だって、なにもかもが無理筋なのだから。
やはり天上を夢見つつ、地獄に堕ちるしかないか。美女ジャケ収集だけは手を出さないようにと、最後にご忠告申し上げます。