現代では、アフリカの流行り病としての印象が強い「マラリア」。実は奈良時代の日本で猛威をふるったことがあった。
(『日本人の病気と食の歴史』奥田 昌子著 より引用)■日本でも珍しくなかったマラリア
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 中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)らは、蘇我氏の本流を645年に打倒すると大化の改新を押し進め、古代日本は大宝律令(たいほうりつりょう)を柱とする法治国家に生まれ変わります。

 701年に完成した大宝律令には、医疾令という医療制度が盛り込まれていました。国として医師を養成し、全国に配置しようという画期的な制度でしたが、興味深いのは医師の専門分野です。

 内科、外科、小児科、耳鼻科、眼科は当時もありました。これに加えて鍼灸(しんきゅう)と按摩(あんま)、このあたりはわかるとして、もう一つ、「呪術」があったのです。朝廷の役人を治療する医師は10人と定められており、そのうち2人が呪術の専門医でした。

 海外との交流が盛んになるにつれ、大陸の唐や新羅への遣唐使、遣新羅使(けんしらぎし)の一行が疫病を持ち帰ることが増えました。奈良時代を中心とする100年間に疫病は約40回発生したとされ、735年に始まった天然痘の流行も、大陸からの人の移動にともなうものと考えられています。このときは、中臣鎌足あらため藤原鎌足の子、藤原不比等(ふひと)と、その4人の息子が相次いで天然痘で死亡しました。

 感染の拡大を食い止めようと、数百人規模の僧が宮中で読経し、ときの聖武天皇は大赦(たいしゃ)を行い、全国に国分寺、国分尼寺を設立し、さらには東大寺に大仏を建立するなど思いつく限りの手を打ちました。それまで豪族が私的に信仰していた仏教は、奈良時代には国家仏教へと変化して、国が寺を建立し、天皇が国家の鎮護を願うようになっていたのです。

 全国で猛威をふるう天然痘だけでなく、限られた地域で発生する疫病もあり、湿地ではマラリア感染が頻繁に起こりました。

マラリアは、奈良時代には瘧(おこり)と呼ばれ、大宝律令は重要な病気の一つに瘧をあげています。

 マラリアというと熱帯の病気と思われがちですが、マラリア原虫に感染した蚊が湿地で繁殖するため、水田が広がる日本では昭和時代の終戦後までありふれた病気でした。国内で最後までマラリア感染が残っていたのは、水路が発達した琵琶湖のほとりだったようです。

 さらに、らい病、現代でいうハンセン病、フィラリア原虫による寄生虫症、結核、赤痢、腸チフス、急性胃腸炎などの感染症、脳卒中、あとで取り上げる脚気(かっけ)なども日常的に発生しました。

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