新選組(しんせんぐみ)に参加した隊士の延べ人数は、726人を数えるという。
そのなかで、山崎烝(やまざきすすむ)は、関西出身の新選組隊士の代表的な存在であろう。
山崎は、新選組が屯所(とんしょ)を置いた壬生(みぶ)村に居住していた医師林五郎右衛門(はやしごろうえもん)の子といわれている。新選組への入隊は、文久(ぶんきゅう)3年(1863)暮れ頃だとされる。京都出身で、京都市中に土地勘もあり、頭脳も明晰で近藤勇(こんどういさみ)にも愛されていたという。ここでは、そんな山崎が持っていた、人的・情報ネットワークについて触れてみたい。
近江(おうみ) 国八日市宿(ようかいちじゅく)の四郎左衛門(しろうざえもん)は、侠客(きょうかく)であったという。この人物は慶応3年(1867)3月、田村佐弥太(たむらさやた)の仲介で会津(あいづ)藩に頼みごとをした。田村は現在の近江八幡(はちまん)市出身で、新選組に入隊後、江田小太郎(えだこたろう)と名乗ったといわれる。
会津藩は、四郎左衛門からの頼みごとを、新選組に任せたようである。その内容は、八日市村の茂左衛門(もざえもん)という人物が、四郎左衛門の博奕(ばくち)について江戸まで訴え出たので、なんとかこの訴訟の出願を潰(つぶ)してほしいというものであった。
新選組では、山崎と谷川誠一郎(たにかわせいいちろう)を出張させた。山崎の目的は出願を許可した村役人を脅して、訴え自体を引っ込ませることにあった。八日市村庄屋(しょうや)平井新兵衛(ひらいしんべえ) は、「事(こと)に寄(よ) ったら、生首を持って帰ってもらうかもしれない」と不気味なことをいわれている。明かな脅迫である。
新兵衛は、羽織(はおり)のまま荒縄(あらなわ)で縛られ、梅の木に吊された。拷問(ごうもん)を受けたわけである。そして山崎は、「3月29日に、出願に押印したのは間違いだった」という書類を、村役人に書かせている。
なぜ山崎は、このような手荒なことまでして、侠客の願いを叶(かな)えたのであろうか。ひとつには、この時期には京都町奉行(きょうとまちぶぎょう)といった従来からの行政機関が、機能しなくなってきていたということがあるかもしれない。
しかし、それよりも侠客が持っていた「ネットワーク」が注目される。
近藤はわざわざ山崎を連れて、征長(せいちょう)軍(慶応2年〔1866〕の第二次長州征伐)の本営がある広島にまで行っている。これは、「表」の社会からアクセスしたのでは取れない情報を、収集するためだったのではないだろうか。