なのにエロく見えないのはなぜ?「ALL I WANT FOR CHRISTMAS」
クリスマスが近づくと、音楽業界もクリスマス・ソングの企画モノをリリースして大いに儲けたものだが、さていまはどうなのだろう?
そもそもクリスマスにデートする(あるいはできる)人が、減ってしまったろうし、家族が集まって「ホワイト・クリスマス」を聴きながらケーキを切るなんて、ほとんどやってないでしょう?
まあ、友人同士のパーティか? イベントか? 音楽業界は儲からず、庭の木やベランダのための電飾グッズ業界が儲かるようになっただけかもしれない。
クリスマスをひとり寂しく過ごすバチュラー(独身者)のための企画だったのか? それとも恋人とふたりで甘い夜を過ごすための企画だったのか? サンタ衣裳ジャケの「ALL I WANT FOR CHRISTMAS」は、ジャッキー・グリーソンらしくロマンティックで、しかも「夜の音楽」だ。
聴くと、恋人とふたりで過ごすためのバックグラウンド・ミュージックのようだが、ジャケットは案外エロい。恋人にコスプレさせてセックスするような時代ではないから、これはうら若い恋人たち向けではないだろう。
そもそもリリースされた1969年、若者はビートのあるロックで踊って、マリファナ吸って、ACIDなドリームを見ていたのだから、グリーソンのムード・ミュージックなんか聴かなかったろう。
スタジオの壁をバックに美女ひとりを撮っただけという、60年代以降顕著になるスタイルの美女ジャケに、筆者はあまり興味が湧かない。セットに凝るとか、なにか物語がありそうな設定がないと妄想も起きないし、美学的な感興もないからだ。
そういう意味では退屈なジャケのはずのこのグリーソン作品だが、サンタ衣裳の絶妙なエロさに惹かれて手放せずにきた。ミニ丈、胸元を大きく開けて、しかもベルトのバックルが異様に大きい。これは何かの表徴か? マニアックにいうと白のモヘア風の部分が胸元の片側だけなのが余計にエロティックに見えるのだが、まぁ、それはたんに筆者が衣服に対して極端にフェチってことなのかもしれない。
個人的な性的嗜好の話になって恐縮だが(いや、毎回恐縮すべきことを書いてますが)、赤、白、黒のコンビネーションが女性のファッションでは最も性的刺激が強いと思っている。
たとえばクリスチャン・ルブタンのハイヒール。真っ赤なソールがルブタンのスタンダードな商品だが、あのソールに上張りされた赤が、なぜ劣情をソソるのか? そもそもルブタンのハイヒールを履く女性は、ほとんどセクシュアルな自信がありそうだし。

赤、そう、なぜか男は女性の衣服や身に付けるものに赤色があると反応してしまうのだ。美女ジャケに赤バックが多いのも、そんな理由からだろう。
いや黒も魅力的だ、いや白も、となるので、赤、白、黒のコンビネーション、具体的には、黒のタイトスカートに白のブラウス。そこに真っ赤な革のベルトというコーデあたりが最高となる。ハイヒールはルブタンの黒で、ね。
サンタ衣裳の赤白からそんな妄想をしたが、美女ジャケにはぴったりハマるものがない。筆者はその昔、のちにAV女優、タレントとしても有名になる及川奈央をデビュー当時に撮影ディレクションしたことがある。
デザインだけでなく添える文章も担当したので、打ち合わせ段階からスタイリストには細かな注文を出した。そのコーデというのが真っ赤なスカート、白のブラウス、それに黒のストッキング。ストッキングはシームの入った太ももまでのガーターベルトで吊るもの。
そう、女性の肉体そのものでなく、そこに付随してくるもの(ほとんどは装身具)に反応するのは、すべてフェティシズムだし、それは個人によってさまざまだ。
運動着に反応する人もいれば、コンサバなOLスタイルに反応する人もいる。
美女ジャケ黄金期の1950年代にはさすがにスポーツスタイルの美女は登場しないので(1970年代にはジャージ姿の美女ジャケがけっこうある)、ここでは1960年代以降、消えてしまうゴージャスなドレス姿の美女ジャケを経巡ってみたい。

やはり赤バックが情熱的なジョージ・シアリングの「Velvet Carpet」はゴールドのドレスが赤い敷物に映えて、素晴らしくゴージャスだ。
Capitolレコードの制作スタッフは一級だから、スタジオ撮影したモデルと別撮りのシャンデリアをうまくコラージュして雰囲気も盛り上げている。
いまどきこんなゴージャスなドレスを着た女性を見ることができるか? ま、高級店オープン時のレセプション・パーティとかにはいそうだけれど……それもだいたいは広告代理店がお金を払ってセレブを招待するので、出席する側もメディアを意識して着飾る、あうんの呼吸、営業スタイルみたいなものだ。
レコード・ジャンキーな人たちは、ゴージャスな世界にはあまり縁も興味もないかもしれない。でも、ゴージャスなドレスが好きな身にとっては50年代って、こういうドレスが当たり前だったの? と思わせるところが美女ジャケの魅力でもあるのだ。
そう、この時代のこの世界に生まれたかった! ああ、こんなゴールドのドレスやネックレスで着飾り、ミュールを履いた美女と真っ赤なヴェルヴェットのカーペットに寝そべられたら……ジャケのなかに入り込みたい!ってね。
あまりそう思ったりする人はいないかな?

よく似た構図のレッド・ニコルズの「in love with Red」は、ほとんど全裸のように見える美女がシフォンの薄絹のなかに横たわって、こちらに笑みを投げかけている。
案外、エロくなくて健全に見えるのは淫靡な妄想をかき立てる要素がないからかもしれない。
とはいえ、こちらもCapitolレコードだから写真の質もデザインも完璧。
そう、ここまでに掲載した3枚がCapitolレコード。他のレーベルはどうしているのだ! と思えば、Libertyレコードのジュリー・ロンドン作品があった。

赤とまではいかないくすんだオレンジ壁をバックに、ゴールドのドレスを着たジュリー・ロンドンがとても美しい。
うしろにマントのように垂れる布が付くドレスは、50年代の映画では夜会服などで出てくるが、これがまたドレス・フェチには堪らないのだ。
肩を露出したドレスは「ローブ・デコルテ」という。脚はロングですっかり隠し、肩や背は大胆に見せる。これはイブニング・ドレスの基本だし、女性のエロティックな衣服としては最高の洗練かもしれない。
筆者のようなドレス・フェチには、こういうのは妄想の湧き出る泉のようなもので、シックでゴージャスな着衣から、いくらでもエロティックなことを夢想することができるから、最高のジャケのひとつなのだ。
ちなみにこちらでジュリーが歌っているのは、タイトルにあるようにブルース。
漠然とセクシーな着衣ものみたいな感じでジャケを追ってくると、ああ、今回はゴールドのドレスにハマっていんだな、という自分に気づく。いや、こういう非日常は素敵だし、エロティックだとつくづく思う。
■露出度が高いマリーさんの太ももはお値段もお高めそして弩級のゴールドのドレスがマリー・マクドナルドの「"the Body"Sings!」。このジャケを初めて見たときはかなり衝撃だった。こんな太ももを露わにして! これはエロ過ぎはしなかったのか? と。

この連載で何回も書いているが、50年代は最もモラルに厳しく、検閲も厳しかった時代だ。ちょっとでも乳首など見えたらなんでもすぐに回収されたが、太ももは見せてもよかった。太もものほうがエロく思えるのだが……
そんな時代背景はともかくも、この太ももに顔を埋めたくてずいぶん妄想した。だが、マリーさんはとても高かった!
国内再発盤ではなく、USオリジナル盤だとなんと18,000円前後が相場だった。20年ほど前の話。
しかもモデルは歌っているご本人。買えない身なのでマリー・マクドナルドについて一生懸命、調べた。彼女はその肢体の魅力から「ボディ」というあだ名が付けられ、雑誌のグラビアを飾ったことも。このレコードのタイトルが「ボディが歌う」となっているのもそのあだ名からきていること。
等々、調べるといやがうえでも欲しくなる。もう、これは性的な渇望に近い。そして相場よりはずっと安い……といっても1万円は超えるお金を払ってこれを入手した。
いや、一晩中、ジャケを眺めて感動してました。おまけにマリーの歌はかなり良い。こういう完璧なレコードがあるものだと思った次第。
ちなみにジャズ・レコード・コレクターには数万のお金を一枚のレコードに当たり前のように注ぎ込む人がいるが、たかがビニールの板にそんなに支払うのがどうにも理解できないので、筆者が購入した全レコードの最高価格がこのレコードだ。
マリーさんのレコードは長く壁に飾った。レコードをいちいち出して聴くのが怖く、デジタル化してCD-ROMに焼いて聴いた。ああ、レコードに恋するとはこういうものなのだ!
ちなみにマリーさんの顔やこの笑顔はまったく好みではない。もっぱらこの衣裳、このポーズ、この太もも、そして質の高いヴォーカルに魅了されたということ。
付け加えておくと太ももが見えれば良いというものでもない。ロングのドレスの裾がたくし上げられ、あるいはスリットから立ち現れる太ももだけが特別に良いのだ。隠されていなければならない、あるいは着ている本人が最終的な武器としているような太もも、それこそが魅力で、それは着衣という前提があってこそのものだろう。
マリー・マクドナルドで思わず熱気を帯びてしまったが、女のフェティッシュな武器はドレスにとどまらない。ゴードン・ジェンキンズの「Monte Proser's Tropicana Holiday」は楽屋の踊り子たちのスナップ写真ジャケ。カメラのアングルも踊り子の仕草も良いし、この手の楽屋ものジャケのなかでは最高に洗練された一枚だ。


そして彼女たちはゴールドのドレスだけでなく、白のグローブ(長手袋)をしている。
手袋フェチでもあるので、長手袋はなぜエロティックな作用をもたらすかについては拙著『パスト・フューチュラマ~二〇世紀モダーン・エイジの欲望とかたち』で、詳細に分析したので、同好の士はそちらをどうぞ。
身体をぴったりと包んだドレスに露わな肩や胸元、そこに加わる長手袋。ようするに露出しながら隠蔽もしていく、これがエロティシズムの高等技法なのだ。
ともあれ、このジャケでは黒髪をメインに、隣に金髪モデルを配し、鏡の後方には数人の踊り子と、楽屋の熱気がよく伝わってくる。女たちのむせかえるよう匂いも。ああ、肉食系とはこういう世界のことなのだ!
と、今回はあまり脈絡なくドレスのことを書いてきたが、おそらく着衣に興味ない人になにを面白がって、妄想したり欲情したりしているのか、理解しづらかったかもしれない。
着衣好きはみな、裸になる前の「じらし」としての着衣が好きなのではないだろうか? 最後はやっぱり脱いだ姿も見たいのだ。となると”ボールド”ビル・ヘーガンの「MUSIC TO STRIP」に行き着く。
ドレスを脱いでジャケのフレームから退場するストリッパー。いや、裸の彼女はどうでもいいか……床に残されたドレスのほうに執着を持って、そこに存在しない理想の女を妄想するのが着衣派だ。
さあ、このドレスを持って帰ろう。フェティシズムとは、まさに業病なのである。