2020年の大河ドラマ『麒麟がくる』がいよいよスタートする。
主人公・明智光秀は京都の丹波・丹後地方とのゆかりが深い。


今回はその義父であった細川幽斎、娘婿の細川忠興、そして娘であるガラシャという3人の絆との絆を紐解きながら、戦国ドラマの舞台となった各地の史跡を巡る旅をご提案! 細川幽斎(藤孝)とは
~明智光秀とのつながりを辿って~
明智光秀と細川家との戦乱の中の絆を巡る―ゆかりの地 京都 丹...の画像はこちら >>
舞鶴市・田辺城跡(舞鶴公園)
関ヶ原の戦いの前哨戦において細川幽斎が籠城し、西軍を迎え撃った城。
明智光秀と細川家との戦乱の中の絆を巡る―ゆかりの地 京都 丹波・丹後 ―

光秀との共闘から一転
一族存続を賭けての戦い

 足利義昭(あしかがよしあき)に側近として仕え、彼の室町幕府15代将軍への就任に尽力した細川幽斎(藤孝)。しかし、義昭が織田信長と対立を始めると、幽斎は信長に従った。長男・忠興と信長の重臣となった明智光秀の三女・玉(ガラシャ)は信長の命により夫婦となっている。

 以後、幽斎は山城(やましろ)国の長岡を所領として与えられ、光秀の指揮下に入り、丹波や大和攻略戦に参加した。天正8年(1580)、幽斎は光秀の助力を得て一色(いっしき)氏を破り、丹後攻略を成功させ、信長から宮津(宮津市)を与えられ、宮津城を築き、城下町を整備してそこを拠点とした。

 現在、宮津城の遺構は近代化の波に呑まれて姿を消していったが、宮津市立宮津小学校には、遺構として太鼓門(たいこもん)が残っており、往年の面影を伝えてくれる。

 こうして共闘した両雄であったが、「本能寺の変」で信長を討った光秀が助力を求めても幽斎は味方せず、田辺城(舞鶴市)に隠居してしまった。細川の思わぬ「裏切り」に遭った光秀は秀吉にあえなく敗れ、非業(ひごう)の最期を遂げてしまう。

 慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いでは幽斎は東軍・徳川方についた。息子・忠興が関ヶ原へ出陣する間、幽斎は500の兵で田辺城に籠城。1万5000の西軍を52日間、釘づけにする奮闘を見せた。

明智光秀と細川家との戦乱の中の絆を巡る―ゆかりの地 京都 丹波・丹後 ―
田辺城天守石垣
田辺城は公園化され、濠は埋め立てられたが、天守台や石垣は残されている。

 現在、田辺城跡は舞鶴公園となり、人々の憩いの場となっている。復興された二層櫓(やぐら)や城門があり、資料館も併設されて城の歴史を現地で目の当たりにできる。細川家の繁栄と生き残りにすべてを懸けた幽斎の奮戦の足跡を探りに訪れてみたい。

明智光秀と細川家との戦乱の中の絆を巡る―ゆかりの地 京都 丹波・丹後 ―
細川忠興とガラシャ
―戦乱の波に翻弄された光秀の娘夫婦

 

忠興とガラシャの苦悩

 明智光秀の娘・玉(洗礼名・ガラシャ)は、光秀と妻・煕子(ひろこ)が越前(福井県)に住んでいたころ、その三女として生まれたという。

 天正6年(1578)、光秀は織田信長に仕え、主命により細川氏の嫡男・忠興に娘を嫁がせる。祝言の場は勝龍寺城(長岡京市)。

明智光秀と細川家との戦乱の中の絆を巡る―ゆかりの地 京都 丹波・丹後 ―
長岡京市・勝竜寺城公園
玉(ガラシャ)が細川忠興に嫁いだ城で山崎合戦では光秀が拠点とした。

 このとき勝龍寺城は細川氏の居城だった。天正8年に丹後・宮津へ移るまでの2年間、忠興とガラシャ夫妻はここで新婚生活を過ごしている。

 天正10年、光秀が本能寺の変で信長を討った。光秀は娘の嫁ぎ先である細川家に加勢を求めたが、幽斎と忠興はこれを拒絶。

 明智の血をひくガラシャを人目のつかない味土野(京丹後市弥栄町)に軟禁してしまう。現在、ガラシャが2年間幽閉された女城の跡地には「細川忠興夫人隠棲地」と刻まれた記念碑が残る。

明智光秀と細川家との戦乱の中の絆を巡る―ゆかりの地 京都 丹波・丹後 ―
京丹後市・ガラシャ隠棲地味土野
本能寺の変後、細川ガラシャが幽閉され、2年間ひそかに暮らした場所。

 とはいえ、忠興はガラシャを大切に思っていたようだ。この軟禁時代にも会っていたようで、次男の興秋(おきあき)などをガラシャは出産している。

 夫・忠興は隠居した幽斎に代わって宮津城主となり、一大名となった。光秀を討った豊臣秀吉が天下を掌握すると、その忠臣となって働き、丹後一国を領する大名に出世した。

 秀吉死後の慶長5年、関ヶ原の戦いが起きると、幽斎も忠興も徳川方への参戦をいち早く表明した。合戦当日の忠興は東軍主力として大活躍を見せる。

 一方、幽閉を解かれたガラシャは大坂の細川屋敷に住み、洗礼を受けてキリシタンに改宗していた。

 関ヶ原の開戦前、西軍は大坂屋敷に住む諸大名の妻子を人質に取ろうとした。ガラシャも連れ去られそうになるが、人質となることを拒んで自ら命を絶ってしまった。

 戦後、論功行賞(ろんこうこうしょう)で丹後12万石から豊前(ぶぜん)国中津33万9000石に国替え(のちに熊本54万石)となり、忠興は見事に大大名の仲間入りを果たしたのである。幕末まで熊本を統治し続けた名族・細川氏の成功の陰には、光秀・ガラシャという明智父子の悲劇があったのだ。

明智光秀と細川家との戦乱の中の絆を巡る―ゆかりの地 京都 丹波・丹後 ―
細川幽斎・忠興・ガラシャ関連年表
編集部おすすめ