地震直後の最初の1時間でいったい何が起きていたのか。阪神・淡路大震災が発生した1995(平成7)年1月17日は、3連休が明けた火曜日だった。この日から再び職場や学校へ戻るという人も、発生時刻の早朝5時46分には大半が就寝中だった。それだけに目覚めたら瓦礫の下にいた、という人は少なくない。
神戸市東灘区本山南町付近/写真提供:神戸市 この1時間で、3842人の方が亡くなっていた。
これは、地震当日に亡くなった人(5036人)の、実に76%に当たる人数だ。実に、4人に3人が、最初の1時間で命を落としていることになる。検案書(死亡診断書)のリストを見てみると、「死亡時刻」の欄で最も多いのが「5時46分」、「即死」という記載。次いで「5時50分」、「6時00分」などが続く。いずれも、遺体を検案した医師が、短い時間で死に至ったと判断するような状態であったことが分かる。
いったい、何が起きていたのか。
手がかりは、建物の被災度を表す44万棟のデータにあった。1時間以内の犠牲者がいた場所と、建物の被害程度を色分けした地図を重ね合わせると、ほとんどの場合で、「全壊」と分類された建物があった位置と一致したのだ。
つまり、自宅が全壊することで多くの命が奪われていたことが分かる。◆6割に共通した意外な死因——「窒息」
その死因を分析すると、意外な事実が分かってきた。
当日、1時間以内に亡くなった人の検案書の「死亡の原因」欄を見ていくと、最も多かったのは全体の9割を占める「圧迫死」であった(図1参照)。ここまでは聞いたことがある人も多いと思う。圧迫死とは、身体が何かに強く挟まれるなどしたことが原因で死に至ることを指す。ただ、この圧迫死は大分類にあたり、実は、さらに詳細な小分類の死因があった。「圧死」と「窒息死」である。
まず、「圧死」とは、重量物や強力な力で身体全体が押しつぶされ、全身骨折や内臓破裂などをともなって死に至ることを指す。圧死は、短時間で身体機能が「不可逆的な(後戻りできない)状態」、すなわち、どんな応急治療も蘇生措置も効かなくなる状態に至るため、いわゆる「即死」となる。
建物の下敷きになって亡くなる、イコール「圧死」、というイメージは一般的に強い。
ところが「圧死」は、検案書のリストを詳しく見ると、1時間以内の「圧迫死」全体のうち、わずか8%を占めるに過ぎなかった。

一方、1時間以内の「圧迫死」のうち、 過半数の61%を占めたのが「窒息死」だった。窒息死とは文字通り呼吸が徐々にできなくなって死に至ることを指す。検案書のリストによると、実に2116人もの人が「窒息死」となっていた(図2参照)。
これは驚きだった。地震と窒息がどう結びつくのか、容易には想像がつかなかった。窒息の原因と言えば、鼻や口を押さえつけられるか、または、餅などが喉に詰まって起こる例しか思い浮かばなかった。どうやって、それと同じようなことが地震で起きるのか、それともほかの原因があるのだろうか。見当もつかなかった。
同じ大分類の中にある、「窒息死」と「圧死」だが、大きく違うのは死に至るまでの時間だ。圧死と違って「窒息死」は瞬間的には起こらない。
つまり、阪神・淡路大震災で「窒息死」とされた2116人の人たちは、地震からある程度の時間は生存していた可能性があることになる。
取材を進めると、その事実を裏付ける様々な証言に出あうことができた。同時に、それは、地震がもたらす窒息死の過酷さを物語るものだった。
検案書のリストを分析すると、窒息が原因で亡くなった人が最も多い地域が分かった。 神戸市の東部、古くからの住宅街・神戸市東灘区だ。
北は六甲山、南は大阪湾に挟まれた東灘区は、淡路島北部の震源から出た2つの地震波がちょうどぶつかった場所だったと考えられ(神戸市編「阪神・淡路大震災発生のメカニズム」 『阪神・淡路大震災の概要及び復興』など)、とくに激しい揺れを観測した。そのため建物が被害を受けた割合が神戸市で最も多く、全壊1万3687件、半壊5538件にのぼった。その東灘区で当時の状況を取材すると、いろんな人から同じような証言が寄せられた。
地震発生直後、倒壊した家屋の下から「声がした」というのだ。 現在、書道教室を主宰するNさん(女性)も「瓦礫の下の声」を記憶している一人だ。
父と、母を震災で亡くしたNさんだが、仏壇の中に大切にしまっている両親の検案書の「死亡の原因」欄はともに「窒息死」と書かれている。
「ええっ、と思いましたね。地震で窒息ってどういうことなのかな、と戸惑いました。両親は喉を絞められたわけでも、口を塞がれたわけでもない、きれいな死に顔でしたから」
ただ、思い当たることもないわけではなかった。倒壊した築50年の実家の下敷きになった両親だが、Nさんが10分も経たず駆けつけた時には、まだ瓦礫の下にいて、近所の人たちが必死に助け出そうとしてくれていた。Nさんはそれを見つつも、同じ町内で妹夫婦と二人の子どもが生き埋めになっていると聞き、そちらへ駆けつけた。まさに極限状態だった。妹の一家4人は2時間ほどで全員が助け出された。その間に、瓦礫の下から運び出された両親は、すでに息絶えていた。ようやく駆けつけたNさんは両親の遺体と対面することになったが、二人の遺体には目立った外傷や大量の出血をしたような痕はなかった。
その時、Nさんは近所の人から思いがけない両親の最期の様子を聞かされた。母の声が瓦礫の下から聞こえていたというのだ。
「お父さんの声は一度も聞こえなかったけど、お母さんの『助けてー』、『お父さん、助けてー』という声は瓦礫の外まで届いたで、と教えてくれました。どれくらいの時間かはっきり分からないけど、地震の直後は確かに聞こえたんだそうです」
少なくとも母親は、しばらくの間、瓦礫の下で生存していたことになる。Nさんにとって、それは辛い事実だった。
「母は日頃から『長患いで子どもに迷惑かけないように、私はころっと死にたいねん』とずっと言ってました。本人の気持ちを考えると、どうしてこういうことになったんだと、 納得しないまま亡くなっていった気がします。寒くて、冷たくて、痛いと思いながら、瓦礫の下で旅立って行ったのかなと考えると、今でもしんどい気持ちになります」
(『震度7 何が生死を分けたのか』より構成)