1945年(昭和20年)4月7日、沖縄突入作戦の命を受けた「大和」はのべ119機の米軍機による集中砲火を浴び続け、その生涯に幕を閉じることとなる。戦況が悪化したとはいえ日本海軍もわずか6カ月で轟沈することなど想定できなかっただろう。
沈みゆく甲板の上で最期まで指揮を執った有賀艦長をはじめ乗組員の胸に去来した想いとは。誇り、無念、後悔、怒り…、戦後75年となる今、大和の生涯と共に改めて考えてみるべきではないだろうか。(原勝洋 編著『戦艦大和建造秘録 完全復刻改訂版』より引用)◼️日本の惨敗だったマリアナ沖海戦
誇り、無念、後悔、怒り。轟沈する「大和」の最期で何を想ったの...の画像はこちら >>
1945(昭和20)年4月7日午後、「大和」は米艦上機の猛攻により鹿児島の西南西約250キロの海域で爆沈した。写真は終末一歩手前の「大和」。艦は速力が低下し、満身創痍の状態で左に大きく傾いている

 米軍の真の目的がサイパン島上陸だと気付かなかった連合艦隊は、5月10日「大和」「武蔵」にビアク島奪回作戦(渾作戦)を下令した。翌日両艦は第二水雷戦隊を引き連れて、まずバチャン島へ向かっている。

 しかし2日後、米機動部隊がサイパン島沖に出現したため渾作戦は中止となり、「あ」号決戦に参加の「大鳳」を旗艦とする機動部隊と合同すべく、バャチン島を後にした。6月19日、マリアナ沖決戦の日、アウトレンジ戦法を採る機動部隊は、縦深配備の陣を取った。

 本隊の「大鳳」前方100浬に、第三航空戦隊(千歳、千代田、瑞鳳)を配備した。「大和」「武蔵」「金剛」「榛名」と第二水雷戦隊は、三航戦護衛の任についたのである。

 この日機動部隊は、ミッドウェーの戦訓を活かした三段索敵で敵空母を発見、理想のアウトレンジの距離から、総数243機の攻撃隊を出撃させた。戦果を待つ間に空母「大鳳」「翔鶴」が米潜水艦の攻撃で沈められている。

期待の攻撃戦も、米軍のレーダー探知と戦闘機誘導による迎撃、コンピューター照準器とVT信管による対空砲火にほとんどが撃墜されてしまった。

 翌日は逆に、米空母機に二航戦と三航戦が攻撃されている。この時、「大和」「武蔵」は、遠距離から敵機に対して主要対空弾を発射したが、戦果は不明。「千代田」「榛名」は被爆し、「飛鷹」は沈没した。

 結局マリアナ沖海戦は、日本側の惨敗だったのである。さらに不運が追い打ちをかけた。海上が荒れていたため、「大和」以下に燃料が補給出来なくなったのである。駆逐艦は燃料在庫が30パーセントを切り、戦艦は50パーセントという状況の下、「大和」は沖縄の中城湾へ急速補給に向かった。かくしてマリアナ沖海戦でも、「大和」など戦艦活躍の場はなかったのである。

 日本国内の燃料が不足していたため、連合艦隊は「大和」以下の艦隊にリンガ泊地への回航を命じた。「大和」は陸軍歩兵第百六連隊将兵と資材を搭載して、7月8日呉を出港、リンガ泊地へ向かったのである。

 7月16日、「大和」を含む第二艦隊はリンガ泊地に到着、以後、捷一号(しょういちごう)作戦が発動される10月18日までのおよそ三カ月間訓練に明け暮れるのである。

訓練は電探射撃に重点を置いた砲戦、特に夜戦を中心に行われた。数カ月前に心配された主砲弾着散布界も、この頃には縮小していた。

 しかし実戦では、砲戦や夜戦でなく、海上航空攻撃に如何に対処するかが重要だったのである。

「大和」はマリアナ沖海戦に出撃するまで、トラック島での長期停泊を含め、航空機による空襲の恐ろしさを実感する機会がなかった。訓練はおのずと砲戦、夜戦に力が入れられた。マリアナ沖海戦の敗北後、日本は重大な局面を迎えていたのである。

■「我々は死に場所を与えられた」沖縄特攻作戦
誇り、無念、後悔、怒り。轟沈する「大和」の最期で何を想ったのか? 戦後75年の今、日本人として考えるべきこと
12時45分、大和左舷前部に複数魚雷が命中。攻撃機が捉えた被雷の瞬間。左遠方では矢矧が被雷、大きな水柱を上げている。低くたれ込めた雲の合間に対空弾の炸裂が集中し、戦闘はクライマックスを迎える

 4月1日、米軍は沖縄本島への上陸を開始、同日中に飛行場を占領した。日本陸海軍は、持てる戦力を結集して総反撃を計画するに至った。

 6日、陸海軍機挙げての航空特攻が、沖縄周辺の米艦船に向けて実施された。

 同日「大和」は航空特攻に呼応する形で、唐突な沖縄突入作戦を下令されたのである。伊藤司令長官は、「我々は死に場所を与えられた」と全将兵を結束させた。「大和」と第二水雷戦隊から成る10隻の水上特攻艦隊は、内海西部の徳山沖を出撃した。

 米軍はこの動きを、通信諜報と哨戒潜水艦の目視報告によって知り、迎撃態勢を整えた。米戦艦部隊は出撃命令を受け、空母部隊は「大和」を求めて北上を開始した。

 6カ月前、航空特攻は「大和」以下の水上艦隊のレイテ突入を成功させるために誕生した。今「大和」は、航空特攻の成功を期して一路沖縄へ向かっている。

 7日早朝、九州沖を含む海上は、どんよりとした厚い雲に覆われていた。

 米索敵機は、厚く低く垂れ込めた雲の切れ間に「大和」を中心とする日本艦隊を目撃した。「大和発見」の報に沖縄沖に展開中の空母12隻から第一次、第二次攻撃隊を含む367機が発進した。
「大和」を中心に輪型陣を組む特区艦隊は、距離100キロに敵編隊を探知、敵襲を予期し沖縄への最短距離をとる。

 米攻撃隊は天候不良の中、八木アンテナ使用の捜索レーダーに導かれて日本艦隊上空に迫まった。

 1230~1250、米攻撃隊は急降下爆撃を開始した。戦爆雷混合の34機は、「大和」にロケット弾112発、爆弾36個、魚雷8本を発射ないしは投下した。「大和」は後部に数発、左舷に被雷するも全速力27ノットをもって沖縄へ針路をとる。

 引き続き1258~1320、60機による少数分散の波状攻撃が「大和」を狙った。爆弾27個、魚雷46本は、右に旋回する「大和」に襲いかかった。艦は左舷に連続被雷して大きく傾く。「大和」は高角砲24門、機銃150挺で反撃した。有賀艦長は防空指揮所に仁王立ちとなり、対空戦の指揮を執っている。

 本艦に旗旒信号が揚った。「決戦海面を180度とす」。

 あくまでも沖縄を目指す「大和」に、さらに攻撃は続く。
1330~1420、25機が「本艦」に爆弾30個、魚雷7本を投下、ないしは発射した。

「大和」は後部副砲付近の火災と、左舷への多数の被雷により速力は低下している。「復原の見込みなし」。有賀艦長は「総員退艦」を決意した。

 1423「大和」は左から急激に転覆すると、弾火薬庫の誘爆で二つに折れ、その巨体は一瞬にして海の藻屑と消えた。

●沈没地点は北緯30度43.0分、東経128度04.1分
●乗員3,300余名中、生存者は276名

 伊藤司令長官、有賀艦長は、艦と運命を共にしている。

 乗員3,300余人の運命は紙一重だった。弾火薬庫の爆発がなければ生存したであろう多くの者が衝撃による水中爆傷で死に、逆様になった艦の中甲板厚さ20センチの甲鈑は楯となり衝撃を遮断、海中深く船体の沈下と共に吸い込まれた者が爆発によって吸引力のなくなった渦から脱出、ポッカリ浮かび上がって生を得た。3300余人中、生存者276名。これが大和の最期であった。

 沖縄突入作戦は中止。その栄光を後昆に伝えんとする「大和」の最期は、同時に日本海軍の終焉でもあった。

誇り、無念、後悔、怒り。轟沈する「大和」の最期で何を想ったのか? 戦後75年の今、日本人として考えるべきこと
14時23分、大和の最期。
2時間に及ぶ米機の雷爆集中攻撃に力尽きた本艦は、左から転覆すると、黒色火薬と自慢の46センチ砲の弾火薬庫誘爆により、その巨体を3つに折って水没。2020年から数えて75年前、戦艦「大和」は轟沈した
編集部おすすめ