2月6日発売の『歴史人』2020年3月号「戦国最強家臣団はどこだ?」。本誌では残念ながら掲載できなかったいわゆる「こぼれ企画」の記事をWEBにて限定公開!
今年の大河ドラマ『麒麟がくる』の主役・明智光秀に仕え、「本能寺の変」の後も付き従った忠節の集団「明智家臣団」を特集。
これを読めばドラマ後半に出てくる(はずの)光秀家臣団に詳しくなれるかも!?
■本能寺の変後も付き従った! 明智家臣団!?「太平記英勇伝」「四十九」「明智左馬助光春」(都立中央図書館特別文庫室蔵) 光秀の家臣団は、どのような構成だったのだろうか。光秀の家臣団は、自身の勢力拡大とともに、規模がどんどん大きくなっていった。そのなかで注目すべきは、明智姓を持つ家臣の存在だろう。
明智左馬助は、三宅弥平次秀満のことである。諸書に光春と記すものもあるが、それは誤りと指摘されている。秀満の出自は諸説が唱えられ、なかには美濃で誕生した塗師の子というものもあり(『綿考輯録』)、美濃との関連性をうかがわせる。先述のとおり、荒木村次の妻(光秀の娘)が光秀のもとに送り返されたので、秀満はこれを妻として娶ったという。
『陰徳太平記』という信頼度の劣る史料の記述であるが、敗者から妻が送り返されることはよくあった。また、秀満が光秀から明智姓を与えられたのは、紐帯を強めるためだろう。そう考えるならば、秀満が光秀の娘を妻とした可能性は高いかもしれない。
秀満の生年は不詳とされているが、天文5年(1536)誕生説が通説となっている。つまり、天正10年(1582)に47歳で亡くなったことになる。
明智次右衛門は、本姓が高山だったという。実名は光忠といわれているが、裏付けとなる確たる史料はない。美濃国土岐郡には高山(岐阜県土岐市)という地名があり、土岐氏の庶流の土岐高山氏の存在が確認できる。明智次右衛門が土岐高山氏の出身だったとは言い難いかもしれないが、美濃国の出身であった可能性は高い。
ほかに『惟任退治記』には、明智勝兵衛、明智孫十郎の名が見えるが、彼らの事績については不詳である。『兼見卿記』に登場する、明智出羽とその弟・左近允も同様に出自などは不明である。ほかの諸書にも、明智掃部の名が見える。おそらく光秀に目を掛けられ、家臣として登用され、明智姓を与えられたのではないだろうか。ほかにも明智姓を与えられた人物がいるので、後述することにしよう。

明智家臣団の中核となったのは、光秀の出身地と推定される美濃出身の家臣たちだった。
本能寺の変で抜群の活躍をしたのは、斎藤内蔵助利三である。利三は天文3年(1534)に利賢の子として誕生し、もともとは斎藤氏配下の「西美濃三人衆」の一人・稲葉一鉄(良通)に仕えていた。しかし、利三は一鉄との関係が悪化したため、のちに光秀に仕官するようになった。その時期は元亀元年(1570)が有力視されている(天正10年説がある)。なお、兄の頼辰は、室町幕府の奉公衆・石谷光政の養子となった。
美濃出身者としては、可児与十郎の名が見える。岐阜県南部には可児市があり、美濃国可児郡が可児氏の出自だったと考えられる。『兼見卿記』には、可児六郎左衛門尉、同彦法師らの名前が見え、一族と推定されている。
山崎の戦い後、討たれた光秀の首を隠したのが溝尾庄兵衛である。天正7年4月の光秀の書状(和田弥十郎宛)には「同名(明智)少兵衛」とあり、この人物が溝尾庄兵衛ではないかと指摘されている。『惟任退治記』には「明智勝兵衛」が登場しており、読み方が「勝」=「少」「庄」なので同一人物の可能性が高く、庄兵衛も光秀から明智の姓を与えられていた。
『信長公記』(池田家本)に「ミ沢昌兵衛」、天正四年二月の副状の発給者「三沢惣兵衛尉秀儀」を溝尾庄兵衛と同一人とする説もある。
光秀が支配していた近江関係では、猪飼氏、大中寺氏、川野氏、堀田氏、小黒氏などの存在が確認できる。うち猪飼秀貞は、明智姓を与えられていた。山城国愛宕郡の関係では、佐竹氏、山本氏、渡辺氏、磯谷氏の面々が光秀に従っていたことが判明している。
丹波では船井郡の土豪の小畠国明・伊勢千代丸の父子が光秀の配下におり、伊勢千代丸もまた明智姓を与えられていた(「小畠文書」)。光秀は山城で京都支配を担当し、同時に信長から近江や丹波は支配を任されていた。光秀は支配を展開していくうちに彼らを配下に収め、ときに明智姓を与えて、主従間の結合を強化しようとしたと考えられる。
■家臣となった旧幕臣たち ほかの家臣では、幕臣と思しき人々が光秀の配下に加わっている。おおむね天正元年(1573)の室町幕府の滅亡を機にして、光秀に仕官したようである。
光秀の娘の一人は、伊勢貞興の妻になっていたという(『伊勢氏系図』)。
『光源院殿御代当参衆并足軽以下覚書』の詰衆三番に名前が見える千秋月斎の子・千秋刑部も、光秀に従っていた。千秋氏は尾張国(名古屋市熱田区)の熱田大宮司家の流れを汲む一族で、室町幕府に代々奉公衆として仕えていた。詰衆とは、当番で毎夜将軍のそばに詰める職務である。
このほかにも、松田太郎左衛門、諏訪飛騨守も姓からして室町幕府の奉行人と考えられる。光秀の取次だった細川丹波守は、内談衆(所務沙汰の審議にあたった構成員)の系譜を引く人物ではないだろうか。亀山城(京都府亀岡市)にいた曽我隠岐守は、奉公衆だった若狭の曽我氏の系譜を引くと推測される。
以上、光秀の家臣団を概観してきたが、そもそも譜代の家臣は乏しく、その中核となったのは同じ美濃出身の者たちではなかったか。その後、室町幕府のに仕えた旧臣、および光秀が支配を展開した山城、近江、丹波の国衆などを配下に加え、家臣団を拡大・形成したと考えられる。