「日本マクドナルド」の創業者であり、シリーズ累計102万部『ユダヤの商法』の著者でもある藤田田がいかにして不世出の起業家となったのかに迫る連載の第2回。ユダヤの商法に開眼した東大法学部時代に出会い、藤田にして変わった発想を持っていたという男とは……。
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■東大法学部で唯一、藤田が認めた男

 藤田がなぜこれほどまでに定期預金にこだわったのか。筆者はそれは高利貸し「光クラブ」の山崎晃嗣との出会いにあったと思う。

 山崎は1923年(大正12年)10月、千葉県木更津市生まれ。父は医師で木更津市長も務めた。旧制・木更津中学から一高を経て1942年に東京帝国大学法学部に入学。1943年に学徒出陣が始まるが、山崎は陸軍経理学校で学び、陸軍主計少尉に任官。

北海道旭川市の部隊に所属した。上官の陰惨ないじめに遭い、一高時代の同級生を亡くした。

 また糧末(りょうまつ・兵士と軍馬の食糧)委員として終戦時、上官の命令で食料隠匿に関与。密告され横領罪で1945年12月に逮捕されるが、上官をかばって、懲役1年6カ月、執行猶予3年の判決を受けた。1946年2月まで札幌拘置所で過ごした。

 山崎は自著『私は偽悪者』に、「人間の性は、本来傲慢、卑劣、邪悪、矛盾である故、私は人間を根本的に信用しない」と書いている。

山崎は戦争という時代、軍隊・組織に対して“激しい怒り”を持った。

 1946年4月、東大法学部に復学。全「優」を目指して猛勉強し、20科目中、「優」17、「良」3の好成績を残した。だが、戦後のハイパーインフレ時代、母から託された10万円(現在の約1500万円)の大金を株で運用したがうまくいかなかった。そんな時、新聞で中野区の闇金融の財務協会が「毎月配当2割」を掲げているのを見て全額出資した。だがそっくりそのまま騙し取られてしまった。

山崎はこれを引き金に、そこの事務員と組んで高利貸しを始めることにした。

 藤田は1926年3月、大阪府生まれ。旧制・北野中学校、旧制・松江高校を経て1948年4月に東大法学部入学。父を空襲で亡くしていたので、生活費や授業料を自分の才覚で稼ぐために、GHQ、つまり進駐軍の通訳に応募し合格。夜間は通訳として働いた。給料は1万1800円。

公務員の初任給が2300円の時代にその5倍以上を稼ぎ、毎晩飲み歩いていたという。

【東大と闇金とGHQ】日本マクドナルド創業者が出会った“ユダヤ人軍曹”と“山崎”という男 ~起業家・藤田田 誕生前夜②~
GHQで通訳のアルバイトしていた頃

 そんな折、藤田の兵隊の位は下士官以下、一兵卒クラスと低く、「Jew」(ジュウ)と蔑(さげす)むように呼ばれているにもかかわらず、将校以上に贅沢な生活をしているユダヤ人軍曹のウイルキンソンと親しくなった。軍から支給される給料の他に、サイドビジネスとして高利貸しを営んで大儲けしていたからだ。

 ユダヤ人は敗戦による価値観の崩壊などとは全く無関係で、藤田がよく言う「金がなかったら何もできゃしないよ!」を実践、実にたくましかった。ユダヤ人の武器は語学。英語の他にドイツ語やフランス語、スペイン語など2か国語を操り、世界にネットワークを張ってビジネスをしていた。

藤田はユダヤ人の生き方に商人の理想像を発見、ユダヤ商法を学ぶために弟子入りした。この時期、藤田は中国人名で「ミスター珍」と名乗り、多くのユダヤ人と仲良くなり実地教育を受けていた。

 その一方で、藤田は東大法学部では山崎と意気投合した。藤田も旧制・松江高校時代に多くの先輩を特攻隊に取られ死なれていたため、山崎と同じように戦争に怒りを抱いていたからだ。

「東大法学部に入って、授業に出てみたら背広を着ているのは山崎と僕だけ。いろいろなことを話していて、面白いなと思ったのは山崎くらいでしたね。

とにかくスゴく計算の早い男で、変わった発想を持っていました。僕は舌を巻くような天下の秀才・天才が雲霞のごとくいると思ったけれど、結局は誰もいなくて、山崎くらいでしたね」

■「本人が死ねば契約は終わる」藤田が山崎に告げた言葉

 藤田と山崎が東大で出会った1948年は、戦後の焼け跡の処理が終わり、ハイパーインフレが収まり、翌1949年には「ドッチ・ライン(※財政金融引き締め政策)」が発動され、超緊縮予算で公共事業半減、公共料金値上げでデフレ不況に突入、倒産が続発し失業者が増大した。

 その時代に山崎は、複利預金と株式投資を組み合わせて、「20万円の資金を2億円」に増やす理論を展開したようだ。(『白昼の死角』著・髙木彬光)。藤田が山崎を「変わった発想」と評するのは、そのあたりのことを指すのではないだろうか。山崎は「光クラブ」の設立と出資を藤田に依頼した。

 山崎が著した『私は偽悪者』(牧野出版)には、藤田をモデルにしたところが次のように書かれている。

〈私は正月の休み明けに大学の法律相談所に顔出しして島田に会った。(中略)ブロークンな英語を使うキザな男で、余り好きではなかったが、家が小金持ちでアルバイトにダイヤの売買をやったりする才能と関係筋をもっているので、「面白いアルバイトだが、一口のらないか」と光クラブの機構を話して勧誘してみた。この島田が兄貴から金を引き出して投資し、光クラブの理事として金繰りの面を一部担当することになった〉

 藤田は「光クラブ」に出資したことを否定していない。天才肌の山崎を尊敬していたからだ。こうして山崎は1948年(昭和23年)10月、中野区鍋横マーケットに、高利貸し「光クラブ」の看板を掲げ営業をスタートした。創業資金の1万5000円を全部使って、東京タイムズと時事新報の3行広告欄に、

「遊金利殖 月1割5分 堅實第一 中野區本町通4の38 光クラブ」

と2行広告を出した。

・借入は【1月据置の月1割2分 6月据置1割5分の後払い】
・貸出は【「10日に1割」の先払い】

 ひと月に計算すれば利ザヤは3割4分になった。光クラブが大当たりした理由は現役の東大法学部3年生の学生が始めた事業ということで、信用があり人気が高かったからだ。また、闇市で大儲けした人たちが貸方に回り、金詰まりの中小零細企業主が借方に回った。既存の金融機関ではこのようなマッチングができなかったのも要因だ。たった1万5000円で2行広告を出しただけなのに2カ月半で1000万円の資金が集まった。翌49年1月には銀座の松屋裏通りにモルタル塗2階建ての事務所を購入し、光クラブの看板を掲げた。

 その後、光クラブは社員30人以上を抱えるまでに急成長したが、49年7月、物価統制令違反の容疑で山崎は京橋署に逮捕された。これを引き金に営業活動はストップ、債権者約390名から約3000万円の取り付け騒ぎが起こり、光クラブは追い込まれた。

山崎は出所してから藤田の元にも相談に行ったと言われる。筆者はオフレコで、藤田が山崎に「国際法でいう『事情変更の原則』を適用、本人が死ねば契約は終わる」と、告げたと聞いた。

 こうして1949年11月25日未明、山崎は青酸カリで自殺した。享年27だった。《第3回へつづく》