しかし、近代の歴史学者たちの研究により、「義」を重んじて、「情」にも厚かったという人物像と官僚としての功績も見直され、再評価されている!
そこで、生まれ故郷・近江を訪れ、三成の実像と足跡に触れる「びわ湖北東部巡り」の旅を提案しよう!■石田三成の功績の理解を深めるべく訪れる地!石田三成肖像画
関ケ原の合戦後、三成を捕えた田中吉政の子孫が三成の菩提を弔うために、ゆかりの龍潭寺に奉納したとされる肖像。
豊臣秀吉亡き後、策謀(さくぼう)をもって日本を意のままに動かそうとして失敗した、人望のない「奸臣(かんしん)」。徳川家康に敵対し、関ケ原の戦いであえなく敗れた「愚将(ぐしょう)」……。
石田三成といえば、こうした人物像が通説とされてきた。
だが、この三成像は「歴史の勝者・徳川」から見た歴史観に基づいて創作されている。歴史とは勝者が〝創る〟ものがほとんどであり、敗者の功績は抹殺されてしまう。三成も同様だったといえよう。
こうした低評価が覆され始めたのは、司馬遼太郎(しばりょうたろう)の傑作歴史小説『関ヶ原』からである。
司馬は三成を、主君・豊臣家への忠節を貫き通して散っていった「義の武将」として再検証し、新たな三成像を世に送り出した。
以来、『石田三成 智の参謀の実像』(小和田哲男)、『義に生きたもう一人の武将・石田三成』(三池純正)など、三成を忠臣・名将ととらえる歴史家・作家は少なくない。
また、『石田三成』( 桑田忠親)においては、豊臣政権下で検地奉行を担った優れた実務官僚であったことを指摘している。
そうした真実の姿や事績は、三成ゆかりの地を歩くことで、より理解を深めることができるだろう。
その地とは滋賀県・長浜市、米原市、彦根市─三成が生まれ、領主として活躍し、かつ関ケ原合戦後に捕縛された─琵琶湖の湖北~湖東に位置する3市である。
■「三献の茶」と関ケ原合戦の逸話を辿る旅が面白い!
石田三成は永禄3年(1560)、近江国(おうみのくに)坂田(さかた)郡石田村(滋賀県長浜市石田町)に生まれた。幼名は佐吉(さきち)。
石田町一帯は古くは石田郷と呼ばれ、つまり三成は郷名を名字に冠した土豪一族の出だった。現在のJR長浜駅から5キロほどの場所に、石田町はある。
住宅街の路地には、三成が浸かった「うぶ湯」を汲んだという井戸が現在も残っている。
その井戸は治部屋敷(治部とは三成の官職・治部少輔(じぶのしょう)を指す)の北側にあったという。屋敷跡には、三成ゆかりの鎧や古文書などを展示した石田会館がある。
三成「うぶ湯井戸」
石田会館前の三成像。住宅街路地には「うぶ湯井戸」。の記述が見える。
幼少時は当時の武家の習わしに従って寺に預けられて、修行と学問に励んでいた三成。学んだ場所は大原観音寺(滋賀県米原市)だ。
「三献の茶」の舞台となった古刹。三成が秀吉に出す茶に使う水を汲んだ「三成水汲みの井戸」も現存している。
三成と秀吉の邂逅(かいこう)は「三献(さんけん)の茶」の逸話で知られる。鷹狩の途中、喉が渇いた秀吉が観音寺に立ち寄って茶を所望すると、寺の小僧が大きめの茶碗に、ぬるい茶を入れて出してきた。ぬるくて飲みやすいので、秀吉は一気に飲み干した。もう1杯所望すると、小僧は少し小さい茶碗にやや熱めの茶を出した。秀吉、飲み干して、さらにもう1杯頼む。
3杯目の茶は、小さい茶碗に入って熱かった。鷹狩で渇いた喉に適したぬるめの茶から、次第に熱い茶を出せば飲みやすい─そう話す小僧を秀吉はいたく気に入り、「この小僧、もらっていく」と和尚に告げ、長浜城へ連れ帰った。
「三献の茶」の逸話を現在に伝える秀吉(左)と、寺の小僧姿の三成(右)の銅像。
この小僧こそが後の治部少輔・石田三成である。JR長浜駅前には、秀吉と、茶を差し出す三成の両人をモチーフとした銅像が立ち、エピソードを今に伝える。
前述した石田町には慶長5年(1600)、関ケ原の合戦に臨む三成が戦勝祈願をしたと伝わる春日神社もある。
その際、三成はひと株の藤をみずから植えた。『近江坂田郡志』には、「嘗て石田三成当社に参拝して藤一株を手づから栽植し祈願の印とせりとて伝えて今に培養を怠らず。大いに繁茂す」との記録がある。
御祭神はアメノコヤネノミコト(出世の神)、タケミカヅチノミコト(徳の軍神)。三成が関ケ原での戦勝を祈願した神社。
春日神社境内にある。長く地元の人々に守られ、今も春になると見事に咲く藤棚。
『三成伝説』(オンライン三成会編)は、「藤の花房は垂れ下がり、先細って行くことから、忌み嫌う武将が多かった」と記すが、三成はそうした縁起を意に介さない近代的合理精神の持ち主だったと評価している。
だが、戦勝祈願も虚しく、三成は関ケ原で敗れた。
関ケ原での敗戦後、追っ手を逃れてこの場に匿われたと伝わる。
法華寺は行基(ぎょうき)が創建した山岳信仰の古刹・己高山鶏足寺(こだかみやまけいそくじ)の別院だったと伝わるが、現在は廃寺である。当時を偲ぶ遺構として石段とわずかな石垣が残り、跡碑が立つ。碑のすぐ近くに、三成が追っ手の目を逃れて潜伏した「大お とち 蛇の岩がん窟くつ」もある。
「士は己れを知るものの為に死す」
中国の春秋時代、晋(しん)の武将・智瑶(ちよう)に仕えていた家臣の豫譲(よじょう)は、山中に逃れ主君の仇を討つことを誓った。
「士は己れを知る~」は、その誓いが故事となって残ったものである。法華寺を目指した三成の心中も、同じであったろう。
彦根―米原―長浜は約17kmほど。
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