難病「道化師様魚鱗癬」を患う我が子と若き母の悲しみと苦しみ。「ピエロ」と呼ばれる息子の過酷な病気の事実を出産したばかりの母は、どのように向き合ったのか。
『産まれてすぐピエロと呼ばれた息子』の著作を綴った「ピエロの母」が医師から病名を宣告された日、母は我が子の「運命」を感謝しながら「これからの親子の人生を豊かなものにしよう」と新たなる決意をした。
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◼️検査結果は「道化師様魚鱗癬」

扉を開け、案内された椅子に座る。
斜め前にあるパソコンには、産まれてすぐの陽(よう:我が子)の写真が映し出されていた。
何度見ても痛々しい姿だった。
そして今までの皮膚の変化が、わかりやすく順に並べられていた。

しばらくは今までの治療経過、成長の経過をグラフや写真をもとに説明を受け、続いて検査結果。
結果はやはり、「道化師様魚鱗癬(どうけしようぎょりんせん)」で間違いないとのこと。

「我が子を全部受け止める」医師から難病「道化師様魚鱗癬」と宣告された若き母の運命への感謝と新たなる決意
胎児の魚鱗癬のケースのイラストレーション(1902年)/パブリック・ドメイン

しかし、それはもう、わかりきっていたこと。
続けて先生が話す。

「脳には今のところ、怪しいものはないです」

「耳は、大きい音しか入っていないかな、という位の数値です」

「今のところ検査結果でお伝えできるのは、このくらいです」

「手足の変形については、この後、整形外科の先生が来て説明があります」

・・・なんだ。
覚悟を決めすぎていたせいか、少し拍子抜けする。

耳が聞こえないのは、もともとの難聴があったのか、この病気のせいなのか、
それはこれから検査していくとのこと。


陽がどうなるのか、何もかも、まだわからなかったころ、
夫とも私の母とも、それぞれに話し合っていたことがある。
もし目が見えなくても、耳が聞こえなくても、物をつかめなくても、歩けなくても、この子なりの生き方を見つけていこう。
陽の生きて進む道を、私たちが見つけてあげよう。
一本道ではなく、沢山の道を、私たちでつくっていこう。

そう決心していた。
それがどれほど勾配の急な坂道だったとしても、私たちが全力で後ろから支えるよ。
そう心に決めていた。

大きい音しか・・・「しか」じゃない。「なら」だよ!
大きい音なら、大きい音なら聞こえるなら、
大きい声で呼びかければ、聞こえるかもしれないんだから。

そう思っていると、整形外科の先生が息を切らして、扉を開けた。
大きい病院だから、移動も大変だろうな~と、まだそんなことを考える余裕があった。
そして手足のレントゲンを見ながら、説明を受けることになった。


その説明の中で、私は遥か昔のことを想い出すことになるとは、思ってもみなかった。

◼️甦る記憶と母親になった運命

皆でレントゲン写真を眺め、整形外科の先生から丁寧な説明を受ける。
やはり、骨はちゃんとある。
まるで生姜のような形の手も、長靴を履いているかのような足も、中には骨がしっかりとあった。
しかし、皮膚によって正しく成長出来ず、変形を起こしていた。

「とりあえず様子を見ていきましょう」

「もっと大きくなったら、手術して治す方法もある」

「でも、陽くんの場合は、大人になっても必ずしも手術できるとは限らない」とのことだった。

そして、リハビリ施設に通うことを進められ、
その施設名を見て、驚きと同時に古い記憶が甦ってきた。

そこは学生時代、実習でお世話になった施設。
リハビリとは違う科への実習だったが、何度もリハビリ室の前を通っていた。
何度も見ていた。
何人もの頑張る子どもたち、そばで見守るお母さん、厳しくも優しい先生、

そしてたくさんの母親の表情を見てきた。

まだ学生で、自分が母親になることなんて、考えてもいなかった私は「大変そうやな~」と思いながら、すれ違いざまに挨拶を交わす程度だった。

まさか私自身が、
その頃に見ていた親子のように、あの施設に通うことになるとは、思ってもみなかった。
これも何かの運命だろうか。

積極的でもなく、消極的でもなく、
大勢いる実習生の中の一人、ごくごく平均並みの実習生だった私。
でも子どもたちの頑張る姿は、今でもしっかりと覚えていた。
そして傍(かたわら)に寄り添う、母親の表情も覚えていた。
頑張った我が子を、涙ながらに誉めていた姿を・・・。
神様は、当時、他人事として捉え、挨拶を交わすことしかできなかった私に、学びが足りないと言いたいのか。

いや、違う。
神様は、
陽は、
まだまだ私に、
たくさんのことを学ばせてくれるんだね。

ありがとう。

そう思うと、少し楽になれる気がした。

『産まれてすぐピエロと呼ばれた息子』より)

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