我々は肩紐が「落ちちゃった」肩が見たいのだ!「all the things you are」
本連載では、タイトルからしてざっくりと「美女ジャケ」という言葉を使っているが、似たようなジャンルに「ヌードジャケ」、「お色気ジャケ」、「エロジャケ」、「フェロモンジャケ」なんてのがある。
たとえばヤフオクのレコード・ジャンルで、これらの語を入力して検索すると、それなりの数がヒットするから、もうかなり前からヴァイナル派には定着した用語なのである。
だいたいはジャケに白人モデルのヌードを使った国内盤が多いが、有名タレント、たとえば若き日の夏木マリとか浅野ゆう子(どちらも大好きでした!)のジャケなんかにも「お色気」や「フェロモン」の見出しがつけられている。
とはいえ「フェロモン」などはかなり昭和臭が強い単語で、もういまの20代の人は、ほとんど使わないだろう。
ヌードジャケは、昭和40年代(1965~75)の和物ムード音楽がほとんどだ。
なぜ、日本でこれだけヌードを使ったムード音楽が流行ったのか? かなり謎である。
欧米盤にももちろんヌードジャケはあるが、乳首まで見せてるヌードジャケのリリース量では、日本は世界のどの国よりも圧倒的に多かったのではないか?
このあたりは『BED SIDE MUSIC めくるめくお色気レコジャケ宇宙』の著者である山口’Gucci’佳宏さんと対談したときに質問しておけばよかったと悔いる。
筆者は完全な着衣派なので、ヌードものとか乳首が見えているものには興味が湧かず、もっぱら「美女ジャケ」界隈を収集してきたが、なぜ着衣のほうがエロティックかというと、そこに「見せることと隠すことの攻防」があるからだと思っている。
たとえばジョージー・オールドのシングル盤「all the things you are」は、燃えるような真っ赤な地に女性のけだるいポーズ。上衣だけ白くして目立たせているが、この目立たせ方は、左の肩紐が落ちていることを視認させるのにも効果を発揮している。
そう、女性が半分、肩を露出するだけで、なんとエロティックになってしまうのだろう! これはサインだよね、もちろん。
映画でいえば、この片側だけ落ちた肩紐の女性の誘惑的な眼差しのあと、男は無我夢中で彼女の肩からうなじにキスを注ぐ。そんな感じでしょう。
男はどうにも一方だけが落ちた肩紐に弱い。いや、両方落ちたのにも弱いのだが、順番として片方から。両方は意図的すぎるが、片方というのは、日常の何気ない仕草でいくらでも演出できる。女性さえ意図すれば。
露出の多くなかった昔の映画では、女が男と部屋で密会する前に、鏡を見て煙草を吸いながら片方だけ肩を露出して会いに行く、なんてシーンがよくある。これなんてあからさまに誘惑の仕草にほかならない。
なので、ジェイ・ゴードン・ストリング・オーケストラの「MUSIC FOR A LONELY NIGHT」もエロティックな写真というわけではないのに、赤いシュミーズ(もしくはブラ)の左肩の紐が落ちているのが異様に気になってしまう。

まさか騎乗位で? なんてことはないでしょうが、端正な美女の顔の向きもなんか微妙すぎてとても気になってしまうのだ。しかも彼女が赤毛というのも、下着にマッチして、このあたりのスタイリングというか、アートディレクションは見事。
もう少しあからさまに扇情的なのがバディ・ブレグマンの「Swinging Kicks」だ。

ベッドの上でネグリジェの肩が落ち、しかも太ももを露出させた美女。なんといっても素晴らしいのは、斜め後ろから撮っていることだ。
男ならこのまま近づいて後ろから抱き寄せて、愛撫することを想像するのではないだろうか? しないかな?
そういう夢想をさせるという意味で「美女ジャケ」とは、あくまで男性目線でつくられたもので、フェミニストのなかには怒る人も多いだろうと想像する。でも、もう半世紀以上も前の作品。いまは絶滅種みたいなものだから、そこは笑って見て欲しいと思う。
洗練された「Swinging Kicks」に対して、ちょっと野暮なのがジェラルド・ブレネの「A Moment of Desire」。手描きの煉瓦模様の壁の前でバスローブかなにかの肩を下ろして横たわる、あまり美女とは思えない女性。

肩を出せば良いというわけではないし、右肩ははっきり「脱いで」しまっている、つまり「落ちている」ではないあたりが、どうにも感興をそそらない。
エロティシズムとは、微妙な「機知」のようなものだから、あまり明確な仕草では、エロティックではなくなってしまうのだ。
こう見ていると「落とし方」、「見せ方」の技法というものがたしかに在ると思えてくる。いや、当たり前にあるのだ。
ベッドで背中をもろ出しにしたフィル・サンケルズ・ジャズバンドの「every morning I listen to...」は、そんな「見せ方」がとてもソフィストケイトされたジャケットだ。

室内の落ち着いた雰囲気、はだけたシーツ。よく見るとお尻のあたりまではだけていて、この女性は下着を着けてないだろうと想像する。
しかも彼女は寝ていない! ここが重要なのだが、ベッドの前のスタンドに伸ばした手って、明らかにこれは起きているときのポーズ。しかもその手の指が、まったくもってエロティックな具合なのだ。これって愛撫する手つきでしょう?
優雅で落ち着きがありながら、そこから密やかに醸しだされるエロティシズム。まず、背中に目がいき、そこから手先に視線が移り、なんとも言えないセクシュアリティを感じてしまう。
「見せ方」の技法としては、最上級のものだろう。
ほんとうに男というのは哀れな生き物で、女性の身体の各部からエロティシズムを嗅ぎだしては、興奮するものだ。見せ方が足りなければ、もっと見せろ、と要求し、簡単に見せすぎると、もう少しじらして欲しいなどと願う。
だからエロティシズムの究極を言えば、男なぞは女のただの玩具(おもちゃ)にすぎない。男の視姦的まなざしは、「見る」という優位に立ちながらも、それを感じ取った女の「見せる」技法に簡単に操作され、優位性は女の側に移ってしまう。
隠しきれないエロが待っている woo,woo
今回のテーマである「見せることと隠すことのエロティックな攻防」という視点から言うと、ジョン・メーガンの「HOW I PLAY JAZZ PIANO」は、なかなかツボを心得たポージングだ。

タイトルどおり、ピアノ演奏の教則のようなアルバムなのだが、でも、これ美女と「ピアノの上でどう遊ぶ?」というアートディレクションでしょう。なかなかタイトルをうまく利用したジャケットだ。
そして肩の露出したドレス。いやがおうにも胸元の谷間が目に入ってくるポーズだ。さらに片方だけ跳ね上げた脚。女性の胸も脚も興味のない男性はいないだろうから、これは見事に男の窃視願望を満たしているのだ。
『ポルノ・ムービーの映像美学』(彩流社刊)という著書もある筆者は、この写真を見ると、デビー・ダイアモンド(という女優)がピアノの上でハードなセックスをする1990年代の名作ポルノを思い起こしてしまう。
まず、女性をピアノの上で転がし、脱がせ……なんてシーンを。
なにかをあからさまに見せているわけでもないのに、とてもエロティックに思えるというのは、女性のエロティシズムのなかの高等技法だと思う。これは以前も少し触れたことだが、検閲の厳しかったアメリカで深化されたものだ。
印刷物は「コムストック法」というのが、19世紀から1960年代半ばまで力を持って、性交はおろか、避妊からヌードから同性愛まで性的なものは、なんでも検閲しまくった。
映画では「ヘイズ・コード」と呼ばれる規制が、1934年から1960年代まで支配してシナリオの段階から検閲した。だからメジャーのスタジオが配給するアメリカ映画は、1960年代までは乳首すら見せなかったのである。
そういう抑圧のなかで監督やプロデューサーは、どう「扇情的」な絵柄になるかに苦心して、隠しながらも最大限にエロティックに見える技法をあみだしてきた。
それはパルプ・マガジン(ザラ紙の低級娯楽雑誌)などのイラストも同様で、典型的なのは、着衣ながら胸がはだけて胸元の谷間が見え、さらにスカートがはだけ太ももが見えるといった構図だった。これなら検閲に引っかからない!
そういう歴史を顧みれば、「HOW I PLAY JAZZ PIANO」のピアノの上の美女は、胸元と脚をうまく見せているという点で、性的に抑圧されたアメリカ文化が生んだ構図の典型のひとつといえるのだ。
だが、レコジャケはパルプ・マガジンではない。値段もずっと高いし、安っぽい扇情性は売れないアーティストならともかく一流どころには使えない。
よりソフィストケートされたエロティシズムが必要となったとき、より高度な技法が生みだされた。
ジョナ・ジョーンズの「a touch of blue」は、そんな高度なエロティシズムの最良の例である。ブルーで統一された室内とドレス。そこに3人の美女。パッと見ただけでもじつに洗練されていて、さすがにCapitolレコードの制作室は違う、と思わせる。
この連載で何度も書いているようにCapitolレコードは美女ジャケの宝庫で、写真からアートディレクションまで、ほぼ社内のスタッフを使って、素晴らしいジャケットの数々を生みだしてきた。Capitolレコードのスタッフからフリーになって名を残したカメラマンも少なくない。

3人の美女をよく見てほしい。まず、床に寝そべっている女性は、パンツルックだが、「胸元」が大胆だ。
椅子に座った女性は、大きくスリットの入ったドレスで「太もも」を露わにしている。
その奥で立っている女性。ホルターネックのタイトドレスの「背中」は大きく開いて、背中そのものを露出させているし、タイトなドレスはヒップも強調している。長手袋をしてゴージャスなところも良い。
ようするに3人の女性を使って、胸元、太もも、背中、と身体のセクシュアルな部位をそれぞれ強調しているのだ。しかも「見せることと隠すこと」の技法を巧妙に使って。
ふ~む、とこのことに気づいたときに思わず溜息が出たものだ。他のアルバムにここまで技法として凝ったものがあったか、と。
たぶん、ない。
この作品は洗練されたエロティシズムという点では大傑作ものだと思う。ちなみにジョナ・ジョーンズさんは黒人のトランペット奏者なのだが、どのアルバムも白人美女ばかりで、ちょっとどうなのよ、と思うところもなくはない。しかし彼のアルバムは売れた。ジャケの訴求力も与ってのことだろうと想像する。
似たようなジャケで、こちらも大傑作なのが、ジョージ・シアリングの「ON THE SUNNY SIDE OF THE STRIP」。この連載で何回も書いているように、筆者はホルターネックのドレス・フェチなので、これはもう二人の女性のドレス姿が堪らない。

しかもポージングが二人とも決まって、まさに奇蹟のようなシャッター・チャンスだったとしか思えない。左の女性の交差する脚。ヒップが強調されてとてもセクシーだ。右の女性は男性にキスして片脚を跳ね上げている。
複数モデルを使ってすべての最良の瞬間を撮るというのは、撮影現場では至難の業だ。だからカメラマンがシャッターを押す量も増える。
余談だが、単体モデルでシャッターを押しまくるカメラマンは、だいたいイモである。数十年、いろいろなカメラマンと組んでモデル撮影に立ち会ってきた経験から、そう思うのだ。
こんな奇蹟のような写真を撮ったのは誰なのか? こちらもCapitolレコードの制作室による作品。ネオン看板の使い方など含めて、そのセンスに脱帽しますね。
ジョージ・シアリングは英国出身の盲目のジャズ・ピアニストだが、ラウンジ・ピアノ的な甘さやラテン・ビートをうまく取り入れてじつに良い。ジャケも美女ジャケが多く、中古盤も容易に入手できるので、美女ジャケ初心者(そんな人はいないか.....)には、最良のアーティストだといえる。
この2枚のアルバムは、肩紐が落ちたりの「思わしげ」でもなければ、エロティックなポーズを取っているわけでもない。それでも見れば見るほどエロティックに見えてくる傑作ジャケットだと思う。
けっして「見せて」はいないのに、いや「隠されている」からこそエロティックさがいやます。着衣派の心を突き刺すようなエロティシズムの神髄があるのだ。
隠されたものを想像してエロティックなエネルギーがたまっていく。そしていつかそのエネルギーを充分に解放する日を夢見ながら、ドレスの向こう側を想像するわけだ。
美女ジャケとは、最高に洗練されたエロティシズムの見本なのでもある。