第2回はスペインかぜの脅威について紹介する。◼️疫病はどんな名将よりも戦況に影響力をもつ前進するドイツ軍、1914年8月7日(パブリック・ドメイン)
第一次世界大戦は1914年にセルビアとオーストリアの間で開戦し、1918年11月に終結しているが、その戦況を変えたのはこのスペインかぜであった。
1918年春、ドイツ軍はフランスのパリを完全に射程内に入れ、総攻撃をかけるまでになっていた。このときのドイツ軍の兵力は100万を超え、フランス在住の連合国軍の実に4倍であった。ロシア軍はすでに戦線から離脱しており、フランス軍は大きな打撃を受けて援軍に頼るしかない状況であった。ドイツ軍の勝利は確定したものと思われていた。そこへ、スペインかぜが突如として現われた。インフルエンザの伝播力は強く、両陣営に夥しい患者を出し始めたのだった。
過去の歴史においても戦時下の疫病は、どれほど有能で名声をはせた将軍や指揮官よりも戦況に大きな影響力を持ってきた。1494年のシャルル八世のイタリア戦争での梅毒、1525年のフランソワ一世とカール五世の戦場にはペストと発疹チフスが荒れ狂った。ナポレオンのロシア遠征にも腸チフス、赤痢が横行し、発疹チフスが最後の止めを刺した。こうして、いわゆる「軍陣医学」の中で、感染症は重要な位置をしめるようになったのだった。
◼戦死者の8割はスペインかぜによる犠牲者ドイツ軍の進軍は7月には完全に止まった。インフルエンザの蔓延する軍隊で、兵士の体力、気力ともに衰えたところへ、さらに補給路が絶たれたことから食糧が不足し、餓えが広まっていった。そこへ連合国軍が新たな兵士を加えて再編成され、反攻したのであった。その結果、休戦条約が結ばれ、第一次世界大戦は終結した。
スペインかぜが激甚な被害を与えたのはドイツ軍だけではなく、アメリカ軍においても、実にその戦死者の8割はスペインかぜによる犠牲者であった。
1918年3月、アメリカ・カンザス州の陸軍キャンプで発生したのが、スペインかぜの最も早い記録である。4月には米国中に広がり、ヨーロッパ戦線に向かう船舶によってフランスに持ち込まれた。5月にはポルトガル、スペイン、6月にはドイツ、イギリス、スカンジナビアでも流行が始まった。
アメリカの参戦は、はからずもスペインかぜの参戦というかたちで、戦局に大きな影響を与えることになったのである。さらに、当時中立国であったスペインが報道規制を行なっていなかったので、この新型インフルエンザはスペインを中心に流行していると誤解されてしまった。 このために、スペインかぜ(欧米ではスペイン・インフルエンザ)という不名誉な名前がついてしまったのだった。
◼マスクやうがい、手洗いを強制、人の集まる場所は閉鎖

1918年の時点では、まだインフルエンザの病原ウイルスは発見・同定されておらず、日本では流行性感冒(または、略して流感)と呼ばれていた。 当時の新聞(東京日日新聞)には、「鉄道員の欠勤多く、輸送に不便が出る」、「地方火葬場へ送るために停車場に死体の山」という記事が載り、上野駅には地方の火葬場に向けて棺桶が積まれていたといわれている。都心の火葬場では焼き残しがでた。
アメリカでは赤十字が50万個のマスクを配り、いくつかの都市では、感染が出た家屋に「立ち入り禁止 Keep Out」の貼り紙をしている。これは、ペスト感染家屋の扉に書かれた赤い十字を思い起こさせる。マスク、うがい、手洗いが奨励または強制された。さらに学校、劇場、教会等、人の集まる場所を閉鎖して、感染の広がりを止めようという水際の努力もなされた。