■文科相が学校再開に言及した理由は【社会>教育】

 萩生田光一文科相が「基本的に学校を再開することが望ましい」と述べたのは、3月31日のことである。この日までに国内で確認された新型コロナウイルス感染者数は1953例にのぼっていた。

安倍晋三首相が全国一斉休校の要請を行ったのは2月27日、その時点での国内での感染者は186例であった。一斉休校要請時の10倍以上にも感染者が増えている状況で、萩生田文科相は学校再開について言及したことになる。
 新型コロナウイルス感染症の拡大が、国内で止まったわけではない。もちろん萩生田文科相も、感染症拡大に収束の兆しが見えたと判断しているわけではない。再開について言及した会見で彼は、「引き続き警戒をいっさい緩めることなく、24日に示した学校再開ガイドラインを踏まえ、3条件(密閉空間、人の密集、近距離での密接な会話)の回避を徹底し、学校再開の準備をすすめてほしい。基本的にその方針には変わりはない」と念押ししている。つまり、状況が好転しているとの認識はもっていないわけである。
 それにもかかわらず、なぜ文科相は学校再開という方針について言及したのか。その疑問に対するひとつの答が、「社会における学校の役割」にあるようだ。

 横浜市日枝小学校の住田昌治校長は、『論座』(朝日新聞DIGITAL)に寄稿し、一斉休校によって社会が学校にかなり依存していることがあぶり出された、と指摘している。
 一斉休校になって問題となったのが、当然ながら「子どもたちの居場所」だった。休校と同時に外出も制限されたので、大半の子どもたちは自宅にいるしかない。
専業主婦の家庭でも、子どもたちに学習させたり、昼食の準備をしなくてはならなくなったり、忙しさに拍車がかかったが、さらに困ったのは共働き世帯の場合であろう。夫婦のどちらかが、もしくは交代で会社を休んで子どもの面倒をみているという話もよく聞かれたし、子どもたちだけで留守番させている場合でも、心配で仕事が手につかなかったに違いない。

 つまり、子どもたちが学校にいたからこそ、家事や仕事ができたいたのである。学校に依存することで、社会が成り立っていたわけである。そのことを一斉休校で、世の親たちは痛感しただろう。また、親だけでなく会社もそのことを強烈に感じたはずである。
 もちろん、この状態に親も会社も納得しているわけではない。「新型コロナウイルス感染症が拡大しているときだから仕方ない」と受け入れられる親や会社は、そう多くはないようだ。事実、親からも会社からも、「早く学校を再開してくれ」という声が高まりつつあった。そうしないと、自分たちの社会生活が成り立たないからである。
 そして、それこそが教育現場の問題でもある。親や会社をはじめとする社会が学校に依存している構造が、教員を過重労働に追い込んでいる要因になっているからだ。

 

■一斉休校中の教員と子どもたち

 一斉休校になっても、学校と子どもたちの関係が切れたわけではない。子どもたちが登校しないのだから、「先生たちはヒマだろう」という声もあるようだが、とんでもない勘違いである。実際には、休校になって教員はいっそう多忙になったのだ。前出の『論座』において住田校長は、次のように書いている。

「休校当初は、時間に関係なく次々と送られてくる文部科学省や教育委員会のメールに対応し、保護者への連絡を繰り返し行いました。また、年度末評価や通知表・指導要録の作成、新年度の学級編制作業、学年末の引き継ぎ等の年度末業務、卒業式の準備や計画の見直しと修正、家庭での健康状況の確認のための家庭訪問、プリントの作成、特別な配慮が必要な子どもや家庭への支援、低学年・特別支援級の緊急受け入れ等、予測困難な状況での対応に追われていました」

 休校になっているにもかかわらず、子どもたちのケアは教員に任されたままなのだ。そのために家庭訪問をしなければならないのだから、それにかける時間も労力も想像以上である。住田氏は、次のように続ける。

「家庭訪問することについても賛否両論ありましたが、家庭訪問では、『先生!つまんな~い!』とモニター越しに呟く子どもや、毎日夜遅くまでゲームをやってしまって今日も今起きた!という子もいたそうです。一人っ子など、ずっと一人で留守番することでストレスが溜まっていると言っていたそうです。先生の声を聞いて『久しぶりに家族以外と話した』とか『外に出てみようと思うようになった』という子もいたそうです。兄弟がいる子は、喧嘩が増えたとも言っていました」
 

■無意識にできあがった学校と教員への過剰な依存

 これだけでも、学校や教員の存在がなければ子どもたちの生活が成り立たないだろうことが想像できる。

学校が休校になれば、親の生活も会社も成り立たない。社会が成り立たないわけだ。
 しかし、ここまで学校と教員が依存されている状態は正常といえるのだろうか。学校は勉強するところであり、教員は勉強を教えるのが仕事だ、とはよく言われることだ。しかし、住田氏の記事を読むだけでも、すでにこの範疇を超えている。子どもたちの健康管理をし、精神的なケアまでを行っている。「新型コロナウイルス感染症での休校という非常事態だから」という見方をする人もいるかもしれないが、そんなことはない。これが学校の、教員の日常なのである。

 子どもたちが登校してから下校するまで、学校と教員は面倒をみている。勉強だけでなく、挨拶の仕方から、廊下の歩き方、給食の食べ方、生活態度まで、ありとあらゆる世話を学校と教員が引き受けている。それを、親も当然のように考えている。だから、「勉強するように言ってください」とか「喧嘩しているので相手を叱ってください」と教員に依頼する。
「うちの子が乱暴なのは学校や教員が悪いからでしょう」と、言いがかりをつけられることも珍しくない。それでも学校や教員は、ありとあらゆることを引き受けているのである。
 これでは、教員が多忙でない方が不思議である。1人や2人の子の面倒をみているわけではなく、担任は40人もの子の面倒を押し付けられている。肉体的にも精神的にも多忙を極め、疲労困憊してしまうのも当然である。そうやって子どもたちの勉強から生活までを引き受けていることで、親たちは仕事に専念することができる。親も会社も、学校や教員に依存することで社会が成り立っているのだ。今回の新型コロナウイルス感染症拡大防止のための休校は、そのことを「あぶり出した」のである。

 依存している親や会社、社会だけに問題があるわけではない。依存させている学校や教員にも問題がある、と言わざるをえない。しかし、この依存関係を続ける以上は教育現場における働き方改革は進まないのかもしれない。しかも、学校再開となればこの依存傾向はより強くなることが容易に想像できる。

 新型コロナウイルス感染症による一斉休校、そして学校再開はこの過剰な依存関係改善のきっかけになるのだろうか。

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