新型コロナウイルスが猛威を振るっているが、いまよりもずっと無防備で、常にさまざまな病気の流行に悩まされていた江戸時代の人々は、感染症とどう戦ってきたのだろうか。江戸文化研究家の瀧島有氏が解説する。
■そもそも「感染症」とはどういうものを言うのか?

 現在、全世界で感染症の新型コロナウィルスが猛威を奮っています。

 私達人間は「かからないように」とはしますし、羅患したら懸命の治療を尽くしますが……。ワクチンなどが出来るまでは、重症化・死去するのを呆然と見ることしかできないでいるわけで。

 そのさまはペストやコレラ、天然痘などの大流行時と同じで、「あぁ人間は医療が発達している現代においても、まだ自然や病の前には最初、無力で変わらないのだなぁ」と感じさせます。

 感染症は太古の昔から威力を発揮したもので、日本もまたその毒牙にかかることしばしばでした。特に江戸期にはさまざまな感染症ないし伝染病が流行しましたが、翻って、まだ新型コロナウイルスに対してのワクチンや薬などが出来ていない現在の日本は、「江戸時代の人々と何ら変わりはない状況にある」とも言えましょう。

 そこで江戸時代の人々は、当時の疾病・流行病(はやりやまい)たちを、どう見て、対処しようとしたのか? 「どのように感染したり広がっていったのかなどを知る」ことで、何らかの一助になるのではないか、大事ではないかと考え、ご紹介していくことにしました。

 まずは素朴な疑問を解決してから本題に入っていきたいと思います。
「『感染症』とはどういうものを指し、また、『伝染病』との違いは何ぞや?」

 誰ですか、「感染するか伝染するかってだけだろう」って言ったのは。

 まぁ、私も究極にざっくり言えばそうだとは思いますが……。それだと「で、どう違うの?」と聞かれる羽目になるので元の木阿弥でございます。

感染症とは・・・
①病原微生物・病原体(細菌、ウイルス、寄生虫等々)が人間や動物の体内・体液に侵入し定着する
②増殖して感染を引き起こす
③その後、体内の組織を破壊。
病原体が体に害をなし、潜伏期間を経て病となったもの

……のことをいいます。

 そして伝染病とは「感染症で伝染性を持つもの」のことで、更にそれが流行すると「疫病=流行り病」となります。感染症と伝染病、「根本は同じく感染症」なんですね。よって、これからご紹介していく病気たちには感染症・伝染病どちらの言葉も登場します。

■【天然痘】独眼竜政宗を生んだ疱瘡は子供たちの殺人鬼だった【大流行】

 では本題に入っていきましょう!

 今回とりあげるのは、天然痘についてです。

 天然痘は天然痘ウイルスによって起こる感染症で、新型コロナウイルスと同様、飛沫や接触などで感染します。紀元前1000年前後のエジプト周辺で最初の報告が確認され、以降、世界中で流行しました。
 国立感染症研究所のホームページなどによると、もしも罹ってしまうと、以下のように進行していくそうです。

(1)1~2週間ほどの潜伏期間を経て39度前後の高熱、頭痛、腰痛の他にも筋肉痛、嘔吐などが出る
(2)それが3日ぐらい続くと熱は下がる
(3)今度は頭を中心に発疹が出来始め、全身に広がる
(4)解熱から7日ぐらいたつと再び40度前後の高熱が出て、今度は内臓にも疾患が広がる
(5)ここで肺や重要な内臓がやられると死ぬ可能性が高い。山場を乗り切れれば快復する

 

伊達政宗が独眼竜になったのは、あのウイルスが原因だった!?~...の画像はこちら >>
天然痘ウイルスの電子顕微鏡写真(提供:国立感染症研究所)

 天然痘は感染力が強く、しかも20~50%という恐ろしい致死率を誇ります。そして40度前後の高熱。
 皆さん、なぜ体温計が40度ないし42度までしかないか、子供や生徒に聞かれたことはありませんか?
 これは「人間は40度になると死ぬ可能性がある」からです。

そして42度以上になると死んでしまう。相当重症の風邪でも高熱は40.9度まで。
 もし41度になると意識不明になり、42度以上になると人間は死んでしまいます。そして体力がある大人でこれなんですから、子供だったら……。
 高熱の恐ろしさが垣間見えるのではないでしょうか。

■もっとも知名度の高い戦国武将・伊達政宗の『独眼竜』は天然痘によって生まれた

 さて。
 江戸時代の「疱瘡(ほうそう)」は有名ですが、何の病気かというと、これこそが「天然痘」です。「痘瘡(とうそう)」ともいいますね。
 当時は最も恐れられた死の病の1つとされ、「疱瘡は器量定め」といわれました。
 これは治ってからもあばたや失明など、あとが残りやすかったからです。
 源実朝、豊臣秀頼や吉田松陰など有名人たちもあばたがあるなど、天然痘にかかった形跡があります。 

 失明といえば、天然痘のおかげで独眼竜が生まれたのですから、いいような悪いような……。

 江戸時代に書かれた『伊達治家記録』の研究などから伊達政宗が天然痘で右目を失ったのは確かなようです。

 伊達政宗は「伊達家嫡子・梵天丸」として両親から可愛がられていました。しかし幼少期に天然痘にかかってしまいまして……。
 治った頃合いから急に、「傍に来るな」と言われるなど母から疎まれるようになり、なぜ急に嫌がられるのかと悲しみ不思議がっていましたが、ある時。
 手水に自分の顔が映ったのを偶然見て…悟りました。
 病で失明した右目が外に飛び出していたのです。
 それまで気付かずに普通に過ごせてきたのは、周囲が「彼の周りから鏡を意図的に隠し、本人が気付かないようにしてあげていた」から。
 そして政宗がその右目を自分で小刀で切り落とそうとする強い思いを汲み、傅役(もりやく)の片倉小十郎景綱は代わりに切ってあげました。
 そのさまはお互いに相当な覚悟の上であり、鬼気迫ると共に凄惨だったとか。

 やはり戦国を生き抜く武士は違うのです。
 なにしろ麻酔無しに目を切り落とすのだからねぇ…。

 しかも失敗したら主君(政宗)はその刀疵から死に至るかもしれないのだから、切る方も切られる方も、その緊張や如何ほどだったでしょうか。

 他にも「疱瘡後鏡隠すも親心」と詠まれるなど、庶民も美人だった娘が病後に変わってしまった顔を見れないようにそっと鏡を隠しており、家臣たちの優しさは疱瘡患者への思いやりの1つでもあったことがわかります。

 裏を返せば「それだけ容姿が変わってしまう病」でもあったのです。

伊達政宗が独眼竜になったのは、あのウイルスが原因だった!?~江戸時代の感染症のホント~
仙台城跡(青葉城址)にある伊達政宗公の騎馬像。■日本における天然痘について。藤原道長は天然痘さまさま!

 このように、天然痘は子供にも多く襲い掛かりました。

 伊達政宗も少年時代、緒方洪庵も8才で羅患。小林一茶の娘は僅か2才で死亡。
 第3代将軍・家光は治りましたがやはり、幼少期に羅患しています。
 当時の子供は10歳未満の死亡率が高く、これは疱瘡の絶え間ない流行が要因の一つでした。特にこの疱瘡は子供の死因トップであり、親や子供にとって「いつ来るかわからず、また来たら逃れられない、まさに神出鬼没の殺人鬼そのもの」だったのです。

 この病気、日本では古くから定期的に大流行。江戸時代には常に流行するほどまでに……。

 そもそもの日本への上陸経由は聖武天皇の御代、遣唐使・遣新羅使を通じてやって来たといわれています。
 おかげで西日本で大流行し、平城京では藤原四兄弟が死去。聖武天皇が東大寺の大仏や沢山の寺院を建立した理由の1つに「悪疾沈静・平癒祈願」があったのも頷けます。さぞや切実、真剣に祈ったことでしょう。
 平安時代は藤原道長の兄2人が相次いで死に、おかげで末っ子の道長は最高権力者に上り詰めることができました。ラッキーすぎる! しかも2人目の兄は関白就任後、僅か七日後に天然痘で死去して「七日関白」と言われたのですから、何をかいわんやという……。

 このように日本における天然痘は、もはや誰でもが日常的にかかる病気だったんですね。一度かかれば免疫ができるので再びかかることはないそうですが(ごく稀に再度かかります)、とにかく致死率が高いのが問題で……。

 では最後に、天然痘予防に尽力した緒方洪庵(1810~63年)という人物をご紹介しましょう。
 大阪に適塾を開いた緒方洪庵は、豊後国(大分県)の豪族・佐伯氏一族で、8才で天然痘に羅患。大阪と江戸で医・蘭学を学び、後に長崎の商館医に師事。緒方洪庵を名乗ります。


 大阪で開業医と同時にあの有名な「適々斎塾(適塾)」を開き、大鳥圭介などを輩出しました。

 この時すでにヨーロッパでは、イギリスのエドワード・ジェンナーが牛痘の研究から天然痘ワクチンを開発していましたが(1805年)、洪庵も出島の医師オットー・モーニッケ経由で痘苗を得て、1849年「除痘館」を開いて牛痘種痘法による切痘を始めます。そして1858年には彼の牛痘種痘は幕府公認となり、牛痘種痘も免許制になりました。
 その功績が認められ、幕府の奥医師・西洋医学所頭取になり、医師の最高位・法眼に叙せられました。

 なお天然痘は1980年にはWHOにより根絶宣言が出されました。その後、現在までに新たな患者発生の報告はなく、人間が克服・撃退できた唯一のウイルスだろうと言われています。天然痘ウイルスは一部の施設で厳重に保管されているのみとなっているようです。

編集部おすすめ