世界ではいまだに都市封鎖とともにコロナ・パニックともいえる自粛要請によって休店休業、突然解雇の大騒動などが報じられ、社会問題になっている。感染不安とともに社会・経済の崩壊を憂える過剰な不安が日々増している。
この事態を「パンデミック・ヒステリー」と呼んだのが、著述家の藤森かよこ氏(福山市立大学名誉教授)。初エッセイの『馬鹿ブス貧乏で生きるしかないあなたに愛をこめて書いたので読んでください。』が現在ベストセラーで話題となっている。そんな藤森氏が「コロナ禍」以後のディストピア未来を予測する。◆見識か警告か予測か計画か?
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写真:ZUMA Press/アフロ

 国際的に高名な識者の述べることで、これは、見識なのか、警告なのか、予測なのか、それとも「計画」の一端をそれとなく知らせたいのか、どちらかわからないようなものが結構ある。

 たとえば、最近話題になったのが、TED Conference(1984年から始まったTechnology Entertainment Designが主催する世界的講演会のことで、2006年から講演会内容をインターネットで無料動画配信)でのビル・ゲイツ(Bill Gates:1955-)のスピーチ だ。

 5年前のTEDで、ビル・ゲイツは、核戦争よりもミサイルよりも、ウイルスによる感染症の世界的流行が人類の脅威になるだろうと講演した。https://www.ted.com/talks/bill_gates_the_next_outbreak_we_re_not_ready

 

 さらに、同じ2015年5月にも、ビル・ゲイツは、インタヴューで「未来の世界で最も気がかりなことは何ですか」という質問に対して、第一次世界大戦や第二次世界大戦よりも、1918年から20年までのスペイン風邪による死亡者が多かったと述べ、「感染症への備えをする必要がある。グローバルな人の移動はあの頃の55倍になっているのだから、次回にパンデミックが起きたら、その被害はとんでもない」と、インタヴューで答えている。https://www.youtube.com/watch?v=9AEMKudv5p0

 

 こうなると、ビル・ゲイツは2015年時点で、現在の世界が苦しんでいる新型コロナウイルス危機を予測していたというよりも、「確実にこうなると知っていた」のではないかと疑われるのも無理はない。

 だから、この件で、The Daily Social Distancing Showのインタヴューで、ビル・ゲイツはコメディアンのトレヴァー・ノア(Trevor Noah:1984-)から、「陰謀論的なことをお尋ねしますが、あなたは、この事態が起きることをご存知だったのですか?」などと質問された(トレヴァー・ノアは南アフリカ共和国出身だが)。
https://www.bing.com/videos/search?q=trevor+noah+bill+gate&docid=608024878934658116&mid=CF0ADE4EA24E42FD17FCCF0ADE4EA24E42FD17FC&view=detail&FORM=VIRE

 

■ユヴァル・ノア・ハラリのコロナ危機対策

 ビル・ゲイツが予告(?)したのは、パンデミックそのものだったが、ユヴァル・ノア・ハラリ(Yuval Noah Harari:1976-)も、パンデミック以後の世界について、見識なのか、警告なのか、予測予言予告なのか、それとも「計画」の一端をそれとなく知らせたいのか、よくわからない内容を発表している。

 言うまでもなく、ハラリは『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』上下(河出書房新社、2016)や、『ホモ・デウス:テクノロジーとサピエンスの未来』上下(河出書房新社、2018)や『21 Lessons:21世紀の人類のための21の思考』(河出書房新社、2019)などの著作で知られるイスラエルの歴史学者である。

 ハラリは、2020年3月30日朝刊「日本経済新聞」に「コロナ後の世界に関する警告」という文章を寄稿している。この文章において、ハラリは、コロナ危機を乗り越えるために、人類が採るべきふたつの選択を強調している。

 第一に、市民にきちんと科学的事実を伝え、十分な情報を提供することによって、ウイルス感染拡大を防ぐために市民が主体的に力を発揮できるようにすること。つまり、自分の健康管理に利用できる技術を市民に提供し、感染状況に関する正確な情報にいつでも自由に市民がアクセスできる環境を整備することによって、公衆衛生向上への市民の主体的な関与を促すことだ。

 第二に、国を超えた協力関係を築くことだ。現在のようにパンデミックを起こした犯人捜しをして、ある国を孤立させようとしたり、賠償金を求めることを画策して、国境の壁を高くすることでパンデミックを防ぐことはできない。

 これらの選択が望ましいものであるのは当然であるのだが、日本の新聞に正論を寄稿していても仕方ないし、言う相手が違うのではないかと思う。

 それよりも、この見解の前段階にハラリが書いていることが気になる。

■コロナ危機で強化される国民監視体制を暗に支持?

 ハラリは、以下のように書いている。

「新型コロナウイルスの感染拡大を食い止めるには、全ての人が一定の指針に従わなければならない。これを成し遂げるには主に2つの方法がある。
1つは政府が市民を監視し、ルールを破った人を罰する方法だ。今、人類史上で初めてテクノロジーを使えば全ての人を常に監視することが可能になった。50年前だったらソ連の国家保安委員会(KGB)であっても、2億4000万人に上るソ連の全市民を24時間追跡することはできなかったし、そうして収集した全ての情報を効果的に処理することも望むべくもなかった。KGBは人間の工作員や分析官を多く駆使したが、それでも全ての市民に1人ずつ監視役を張り付けて追跡するのはどうしても無理だった。だが今では各国政府は生身のスパイに頼らずとも、至るところに設置したセンサーと強力なアルゴリズムを活用できる」

 こう書いて、ハラリは、中国やイスラエルの市民監視システムについて紹介する。

 たとえば、中国では、国民のスマートフォンを監視し、顔認証機能を持つ監視カメラを何億台も配置し、市民に関する個人情報を収集しつつ、市民に体温や健康状態の報告をさせ、新型コロナウイルス感染者の早期発見に努め、感染者に近づくと警告を発するアプリまで開発されているとか。

 イスラエルのネタニヤフ首相はイスラエル公安庁に対し、新型コロナの患者を追跡するために通常はテロリスト対策にしか使わない監視技術の利用を認めたとか。

 さらに、ハラリは、監視技術はすさまじい速度で発展しているとして、以下のように書く。

「こんな現実はすでに知っているとあなたは思うかもしれない。政府も企業も近年、これまで以上に高度な技術を駆使し、市民を追跡し、監視、操作しているからだ。だが、うかうかしていると、新型コロナは監視の歴史における重大な転換点になりかねない。これまでは大量の監視ツールの配備を拒んできた国でも、こうした技術の活用が常態化するかもしれないだけでなく、監視対象が「皮膚の上」から「皮下」へと一気に進むきっかけにもなるからだ」

 この「皮膚の上」ではなく、「皮膚の下」とは、たとえばマイクロチップスなど市民の皮膚の下に注入すれば、その市民の測定データが蓄積され、当局に送信されるということらしい。

 アルゴリズムで分析すると、当該人物の健康状態ばかりではなく、どこにいたか、誰と会っていたかまで把握することが可能になる。たとえば、何かのビデオクリップを視聴している際の体温や血圧、心拍数を計測できるようになれば、どこで笑い、泣き、心の底から怒りを感じたかまでわかるようになる。

 つまり、企業や政府が市民の生体データを収集し始めれば、企業や政府は、私たち自身よりもはるかにしっかりと市民を把握できるということだ。つまり、市民を操作できるということだ。

 

■自由やプライバシーより安全が大事か?

 どうも、今の新型コロナウイルス危機の世界においては、感染拡大阻止という大義名分のもとに、市民の自由とプライバシーの侵害は許容されるべきだというのが世論であり正論であるようだ。安全と自由のどちらを選ぶかと言えば、安全であるのが世論であり正論であるようだ。

 私自身は、自由やプライバシーを守るほうが大事であると思う。人間はどっちみち、病気や事故で誰でも死ぬ。死自体は阻止できるものではない。しかし、自由やプライバシーが侵害される事態は阻止できる。

 そもそも、この危機は一度では終わらない可能性が高い。第二波、第三波があるかもしれない。

新型コロナウイルスは非常に変異が多いタイプのウイルスらしい。https://news.yahoo.co.jp/byline/endohomare/20200310-00166933/

 パンデミックは簡単には収束しない。「スペイン風邪」は1918年から20年にかけて2年間も流行した。速水融の『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ』(藤原書店、2006)によると、日本では、スペイン風邪は2回にわたって流行した。『前流行』(1918年11月~1919年6月)、と『後流行』(1919年12月~1920年6月)である。一方、スペイン風邪の日本における流行を第1回、第2回、第3回の3つに分けている資料もある。https://bunshun.jp/articles/-/37210

 つまり、緊急事態だから、市民の自由やプライバシーの侵害はいたしかたないという事態が、一時的措置ではなく、なかば恒常的にされてしまうことがありえる。

 前提として、一般市民には政府やメディアや専門家が言うことが事実かどうかはわからない。ただ、事実だと信じるしかないから信じるだけだ。ほんとうは、市民の自由やプライバシーの侵害をする必要もないが、市民統治の観点から市民監視体制の強化をしておくほうが便利だと政府が判断し、それが実践されたとしても、それを見破ることなどできない。

 

■未来予測という呪縛

 しかし、いろいろな識者が、コロナ危機に関して「人命が大事なので、監視体制や政府の権限拡大が必要」という見解を提示すると、それらが重なると、それらの見解が、単なる個人の識者の見解以上のものに思えてくる。

 ハラリの「コロナ後の世界に関する警告」は、新型コロナウイルス危機以後の世界は、こうなってはいけないという警告文である。

一見すれば、そうである。

 しかし、「こうなるかもしれません」という見解を通り越して、「こうなるでしょう」という予言じみた言葉になり、ついには、「こうなることは規定路線ですから、心構えをしておいてください」と告げるような響きを帯びていると、私は感じてしまう。

 こういう言説が、あちこちから出てきて流通することにより、私たちは、ディストピア的未来のヴィジョンを、抵抗するほうが間違っている類の倫理的既定路線として必ず起きるものとして錯覚し、受け容れてしまうのかもしれない。

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