● 江戸では湯屋が大繁盛
江戸では、町人が風呂を持つことはあまりなかった。豪商であっても、そうした事情は同じである。
増加の理由としては、江戸の気候事情も見逃せない。江戸は風が強くホコリをかぶりやすかったため、毎日風呂に入るのが習慣になっており、湯屋の需要は大きかったのである。町屋が自宅に風呂を造らなかった理由としては、火事に対する恐れ、燃料の薪の価格が高かったこと、水が不自由なことが挙げられる。その手間や費用を考えれば、自宅で風呂を造るよりも、湯屋に出かけた方が安上がりで好都合でもあるというわけだ。
入浴料は、他の物価に比べると格安だった。
●衝撃の「ざくろ口」とは?
湯屋の洗い場と浴槽は、「ざくろ口」で仕切られていた。「ざくろ口」は高さ90センチほどしかなく、かかんでくぐらなければなかなかった。浴槽の湯気を逃さないようにするために、仕切りを狭くする造りを取ったのである。その結果、浴槽の温度は50度近くにのぼった。「ざくろ口」という名称は形状からではなく、かかんで出入りしたことから生まれたという説がある。「かがみ入る」と「鏡鋳(かがみい)る」を掛けた江戸っ子の洒落というのだ。鏡鋳るとは鏡を磨くという意味だが、この時代はざくろの実を使って鏡を磨いた。
この頃、体を洗う前に浴槽につかり体を温めるのが普通だった。水を豊富に使えない事情もあり、浴槽の湯は汚く、体を温めるだけに使われた。浴槽から出るときは、別に上がり湯をもらった。上がり湯をくむ者は「ざくろ口」の脇に控え、湯くみ番と呼ばれていた。
中央に「ざくろ口」。その脇には上がり湯をくむ「湯くみ番」が見える。「職人尽絵詞」より
安藤優一郎(歴史家)