「甲斐の虎」と恐れられた武田信玄―――。
一代にして、甲斐、信濃、駿河、上野、遠江、三河、美濃の一部を手に入れた稀代の名将は、天下に号令を下す野望を果たす目前で、突然の最期を遂げます。
一般的には病死であったと言われていますが、実は一発の銃弾による傷が原因で亡くなったという説も残されています。その銃弾を放ったと言われる人物こそ「鳥居三左衛門(とりい・さんざえもん)」という一人の無名の武将だったのです。
三左衛門の生年や出自などはわかっていません。その名字から、徳川家(松平家)の譜代家臣である「鳥居」家の一族であると考えられます。鳥居家の中では「関ヶ原の戦い」の前哨戦の「伏見城の戦い」で城代として籠城して討死した鳥居元忠などが有名です。
三左衛門は縁あって、野田城(愛知県新城市)の城主である菅沼定盈(すがぬま・さだみつ)に仕えました。鉄砲の名人だったと言われているので、その腕を買われたのかもしれません。
そして、時は元亀4年(1573年)2月9日――。
三左衛門が入る野田城を、2万5千とも言われる武田信玄の大軍に包囲してからおよそ1ヵ月が経っていました。城兵はわずか400でありながら、よく持ち堪えていました。
(このままでは城が落とされてしまう。その前に何とかしなくては…)
三左衛門がいくら嘆こうとも、野田城兵にとっての戦況は悪化の一途を辿っていました。この日も、大きな戦いはなく日が暮れていきました。野田城の落城は目前に迫っていました。
日が暮れた野田城には、戦場の疲れを癒す笛の音が、今宵も響き渡りっています。伊勢国山田(三重県伊勢市)出身で“小笛芳休”の異名をとる村松芳休(ほうきゅう)という笛の名人がたまたま籠城しており、戦が始まってから毎晩笛を吹いていました。その音色は、味方だけでなく敵すらも魅了したと言います。
(いよいよ今宵が最期の笛の音かもしれぬ…)
三左衛門が笛の音に聞き入っていると、城の堀を挟んだ崖の上に何やら見慣れぬ白い何かが目に入りました。
「あれは何じゃ?」
三左衛門が目を凝らすと、それは竹を数本立てて紙を周囲に張った急造の陣幕の様なものであることがわかりました。その中や周囲に人の気配はしません。
「あの幕の中で誰かが芳休殿の笛を聞くのか。
豪気で風流な者――。
三左衛門の頭の中に、ある一人の人物が浮かび上がりました。
「いや、まさか、その御仁とは…。しかし、その様なことがあるはずはない」
陣幕に背を向けた三左衛門はその場を後にしようとしましたが、鉄砲を強く握り締め、振り返りました。
「いや、城は明日にでも落ちる!出来る限りの策は打っておこう!!」
三左衛門は陣幕に訪れた者を狙撃するために、陣幕の竹を目印に鉄砲を仕掛け、その場で待つことにしました。
しばらくすると、堀の向こうには人声が聞こえ始め、その人声は陣幕の中に集まりました。
三左衛門が耳を凝らすと、中からは太く力強い声が聞こえてきす。
「明日が最期だと覚悟して吹いているようだ。当世の笛の上手で、これに過ぎる者はいないであろうな」
三左衛門はその声が聞こえる陣幕の中心に鉄砲の標準を合わせました。
そして、笛の音に添うように静かに引き金を引きました。
――――――!!!
一発の銃声が響き渡り、辺りは騒然となりました。
「何事だ!」「夜討ちか!」「暴発か!」「怪我人はおらぬか!」
混乱が起き、芳休の笛の音もいつの間にか止まっています。
その喧騒の中に紛れた一つの叫び声を三左衛門は聞き逃しませんでした。
「た、大将が撃たれた!!!」
その声は陣幕の中にいた武田軍から聞こえたものでした。武田軍は混乱をきたし、慌ててその場を退いていきました。三左衛門はその様子を見て確信しました。
「わしは武田家の大将を撃ったのだ…。わしは武田信玄を撃ったのだー!!」
一説によると、三左衛門の銃弾は信玄の左頬を撃ち抜いたと言われています。ところが、信玄を狙撃したものの戦況は好転せず、城主の菅沼定盈は武田軍に降伏して城は明け渡されました。野田城を落とした信玄は、さらに西へ進むと思われましたが、なぜか自国に引き返します。
実は、三左衛門が放った銃弾によって重傷を負った武田信玄は、およそ2ヶ月後の4月12日にその銃創が原因で亡くなったと言われているのです。信玄を失った武田家は西上作戦を中止し、その2年後に起きた「長篠の戦い」で惨敗するなど徐々に求心力を失い、最終的に織田信長や徳川家康らの「甲州征伐」によって、滅亡に追い込まれることとなったのです。
「野田城の戦い」の後の鳥居三左衛の詳しい事はわかっていません。しかし、野田城跡の向かいの崖の上には武田信玄が狙撃されたと伝わる「笛聞場」が残り、野田城跡には三左衛門が信玄を撃った「伝・信玄公狙撃場所」が残されています。