「大坂冬の陣」における真田丸の戦で徳川軍を数多討ち取り、「大坂夏の陣」で徳川本陣を強襲して家康を切腹寸前まで追いつめたと言われる名将・真田幸村(信繁)。“日ノ本一の兵(つわもの)”と称された幸村を討ち取った人物こそ「西尾仁左衛門(にざえもん/じんざえもん)」という名も無き兵だったと言われているのです。
仁左衛門の生年や生国などはわかっていません。一説によると相模国(神奈川県)の出身だと言われています。実名を「宗次(むねつぐ)」という仁左衛門は、はじめは「宮地久作」と名乗り、後に遠江国(静岡県西部)の西尾是尊という浪人の養子となり「西尾久作」と名を改めました。その後に「西尾図書(ずしょ)」、次いで「西尾仁左衛門」と改めています。改名時期に関しても詳しいことはわかっていません。
仁左衛門は、はじめ武田家の重臣である横田尹松(よこた・ただとし)の家臣となりました。しかし、天正10年(1582年)に武田家が滅亡すると、そこから約10年、仁左衛門の動向は不明となります。浪人として仕官先を探していたと思われます。武田家に数年仕えたということですから、武田家の重臣であった真田家のことは無論知っていたことでしょう。
仁左衛門が再び世に出てくるのは文禄2年(1593年)のこと。
その後、慶長5年(1600年)の「関ヶ原の戦い」の戦功で、主君の秀康が越前国北ノ庄(福井県福井市)へ加増移封となると、仁左衛門もこれに従いました。
仕官して間もなかった仁左衛門でしたが「鉄砲者頭(=鉄砲足軽を率いる大将)」に指名され、本陣の前にあって先鋒を任される「先手役」を務めるなど、武田家時代からの経験豊かな武辺者ぶりは評価されていたようです。越前入封の翌年には700 石に加増され、中級武士となっています。
「家中において、西尾家が重んじられるためには、次の戦でさらに武功を挙げねばならぬ!」
まだ新参者であった仁左衛門は、そういった心持ちであったかもしれません。
そして、時は慶長19年(1614年)を迎え、「大坂冬の陣」が開戦しました。
松平忠直(結城秀康の子)率いる越前松平家の1万の軍勢は、真田幸村が築いた出丸の真田丸を攻め立てますが1500人以上もの死傷者を出してしまいました。この時、仁左衛門は常の通り「先手役」を務め、城塀に取りつき兜に槍傷を受けたと言います。この塀は、大坂城の総構の塀、もしくは真田丸の塀であると考えられます。足軽大将の仁左衛門が最前線で戦っていることから、この戦の激しさや、仁左衛門の覚悟をうかがい知ることができます。
また「冬の陣」で徳川軍が大砲を大坂城に撃ち込み続け、砲弾が屋敷に命中して淀殿(茶々)の侍女が亡くなり和睦へ話が進んだということはよく知られています。実はこの時に、家康から「砲術鍛錬之者数十人」を選んで大坂城内に大砲を撃ち掛けるように命じられた大名は、藤堂高虎と松平忠直だったと言います。仁左衛門は忠直の鉄砲者頭ですから、ひょっとすると大坂城に大砲を撃ち込んでいた兵の中に、仁左衛門がいたかもしれません。
このように和睦への一端を担った越前松平家ですが、「冬の陣」における戦功は、真田丸の戦いが物語るように、芳しいものではありませんでした。
「家康公の覚えが目出度くなければ越前松平家も改易となり、西尾の名を残すこともまかりならぬ!」
仁左衛門は決意を新たにしたことでしょう。
年が明け、慶長20年(1615年)となり、「大坂夏の陣」が開戦となりました。
5月6日の「道明寺・誉田の戦い」や「八尾・若江の戦い」を優位に進めた徳川軍は、その勢いのまま大坂城に詰め寄りました。大坂城の巨大な堀がない今、豊臣軍も野戦を仕掛けるために陣を張っていたため、翌5月7日には両軍は天王寺口と岡山口で対峙します。
仁左衛門が従軍する越前松平家の軍勢の前には、「冬の陣」の際に家康が本陣とした茶臼山が見えます。そこには赤備え(あかぞなえ)の甲冑で統一された軍勢が陣を張っていました。
「赤備え…真田の軍勢か!」
仁左衛門をはじめとした越前松平家の兵たちは、その光景に憤りや恐れを感じたことでしょう。
そして、慶長20年5月7日の正午を迎えようとしていた時―――。
「天王寺・岡山の戦い」と言われる激戦は、徳川軍の本多忠朝(ただとも:忠勝の子)隊の銃撃で突如始まりました。本多隊が天王寺に陣を張る毛利勝永(もうり・かつなが)に銃を撃ち込むと、真田隊が陣を張る茶臼山の方面でも銃撃戦が繰り広げられ始めました。
ところが、この銃撃戦に越前松平隊は加わろうとしません。それは藩主の松平忠直の下知がまだ届かず、撃つことが出来なかったのです。
仁左衛門はこれに異を唱え、家老の本多富正(とみまさ)にすかさず進言しました。
「この先で鉄砲の音が聞こえてくるのに、我らは待ち過ぎでございます!終いには撃ち負けて手負いの者を多く出してしまいます。ここは下知を待たずに早く撃ち返すべきです!」
富正は「最もである」と進言を採用し、豊臣軍の真田隊などとの銃撃戦が始まりました。そして、そのまま乱戦となり、越前松平隊は豊臣軍を押し始めました。「冬の陣」の失策を取り返す気持ちが強かった越前松平家は「夏の陣」において“大坂城一番乗り”と“最多の首級を取る”という2つの大功を挙げた程、士気が高かったのです。
この乱戦の中で越前松平隊は、まず真田隊を突破しました。そして、そのまま突撃し、大坂城を目指しました。しかし、大坂城を目指し過ぎた結果、真田隊の一部が越前松平隊の脇をすり抜けていきました。
幸村率いる真田隊は徳川家康の本陣を強襲し、「三方ヶ原の戦い」以来、一度も倒されることがなかった馬印は踏みにじられ、家康は逃げる最中に切腹を覚悟するほど追い詰められていました。
家康の本陣が崩れたことを知った藤堂高虎や細川忠興などの軍勢が加勢に入り、家康は何とか危機を脱しました。家康の首一つを狙った真田隊をはじめとする豊臣軍の目論見はここで崩壊し、残兵は大坂城を目指しました。
、越前松平家の軍勢は大坂城一番乗りを目指して驀進していました。しかし、仁左衛門はこの中にいませんでした。詳しい理由は不明ですが、史料を見るにどうやら「よき敵」を探していたようです。つまり、大坂城一番乗りの武功よりも、名のある武将を討ち取ることを狙ったということです。
大将首を狙った仁左衛門は、馬に乗って真っ直ぐに敵陣の中へ飛び込んでいきました。小高い丘に馬を進めると、朱色の甲冑を身に付けた馬上のよき敵が目に入りました。
「あいや、待たれい!真田の御家中と見え申し候!我は越前松平家鉄砲物頭、西尾仁左衛門である!槍を合わせたまえ!」
仁左衛門が声を掛けて馬を下ると、敵は名乗りを上げることなく馬を下り、静かに槍を構えました。よく見ると、敵は身体にいくつも傷を負っています。
(この場所は生國魂神社と勝鬢院の間だと言われ、最期の地と伝わる安居神社よりも500mほど北にあたります)
さて、よき敵を討ち取った仁左衛門でしたが、ここである問題が起きました。
「名のある武士のようだが、誰なのだこの者は―――」
武田家に仕えていた仁左衛門でしたが、自身が討ち取った真田家の敵の名がわからなかったのです。ひとまず仁左衛門は首を持って陣に戻りました。
そこへ仁左衛門の親戚の羽中田市左衛門とその弟の縫殿之丞が陣中見舞いにやってきました。
「此度の戦の首尾はいかがか?」
「兜首を討ち取ってまいったのだが、誰なのかわからんのだ」
仁左衛門は討ち取った首を羽中田兄弟に見せました。すると―――
「な、なんと!この首は真田左衛門佐(さえもんのすけ)幸村殿ではござらぬか!!」
「なんだと!?それは、確かか!?」
「某(それがし)たちは元々、真田家に仕えていた身。間違いございませぬ!」
自分が討ち取った武将が真田幸村だと知った仁左衛門は、家老の本多富正と本多成重(なりしげ)に報告すると、すぐに藩主の忠直の耳に入り、褒美に腰物(刀)を下賜されました。その後、家康と徳川秀忠にその報せが入り、仁左衛門は両御所(家康と秀忠)に御目見えを仰せつけられ、御褒美金と時服を賜っています。
仁左衛門は「大坂の陣」の後、幸村を討ち取った武功から1800石に加増され、年寄(家老)に次ぐ「寄合」の家格となりました。その後も段々と加増され、200石で始まった仁左衛門の禄高は、最終的には3800石となりました。
その西尾家には、幸村を討ち取った際に戦利品として得たと言われる幸村愛用の采配や長刀(なぎなた)、兜が家宝として残り、現在まで伝わっています。
また、仁左衛門は幸村を弔うために地蔵を建立しています。それは仁左衛門自身も眠っている孝顕寺(福井県福井市)に建てられ「真田地蔵」と呼ばれました。背面に「大機院」(幸村の法号)が刻まれたその地蔵は現存しており、今は福井市立郷土歴史博物館に寄贈されています。
この地蔵の元々の安置場所は「真田幸村首塚」と伝承されてきました。しかし、実際は幸村の鎧袖を埋葬した場所であり、本当の首塚の場所は別にあると言います。それは福井城下のどこかであると言われていますが、西尾家の一子相伝の秘密になっていて、仁左衛門の子孫以外は誰も知ることが出来ないそうです。