芋田楽(いもでんがく)という性の隠語がある。母と娘が同じ男と通じることである。
神田佐久間町に大黒屋という商家があり、夫婦にはふたりの娘がいたが、男の子はなかった。そこで、主人の甥にあたる清助を、いずれ長女の婿にするという約束で同居させた。そのとき、長女は武家屋敷に奉公に出ていたのだ。そうするうち大黒屋の主人が死に、女房のお琴は後家になった。いずれ長女が奉公をやめて戻れば祝言をあげさせるという約束のもと、清助は奉公人同様に働かされていた。
嘉永三年(1850)になった。妹のお昌は十三歳だったが、浄瑠璃の稽古で知り合った弁之助と深い関係になった。お琴は四十歳だったが、お昌の相手の弁之助を見て淫欲を燃えあがらせた。弁之助は十九歳である。家に遊びにくる弁之助を誘惑し、お琴はついに関係をつけた。弁之助にしてみれば、娘のお昌、母のお琴との芋田楽である。
「長女と清助をめあわせる約束をほごにして、清助は追い出そう。そして、お昌の婿に弁之助を迎えよう。そうすれば、ひとつ屋根の下に寝起きしているのだから、あたしも不自由なく弁之助と楽しむことができる」
長女が屋敷の奉公をやめて実家に帰り、清助と祝言をあげた。ところが、しばらくすると長女も、母お琴と妹お昌が弁之助と芋田楽になっているのに気づいた。また、母が弁之助を婿にしたいと願っているのも知った。いやになった長女は二ヵ月ほどで家を飛び出して、ふたたび奉公先に戻ってしまった。お琴は、あとに取り残された清助をののしり、家から追い出そうとする。たまりかね、清助は町名主に訴え出た。
名主などが乗り出し、お琴の計画はつぶされてしまった。自暴自棄になったお琴は弁之助を口説き、駆落ちした。
現代と比べると、江戸時代の女の行動は制約されていた。たとえ中高年の女が淫心をたかぶらせ、「男漁りをしよう」と思っても、相手はせまい範囲のなかで選ぶしかない。現代のように気軽に外出はできなかったし、メールで募集するなどもできなかったからである。そのため、ひとつ屋根の下の密通が多かった。結果として、芋田楽も多くなった。