第31回
「死」について考えよう
死に方を想像する
生き方について考えることは、結局は死に方を考えることでもある。これは、小説を執筆するときも同じで、物語を書くというのは、物語をどう終わらせるかを考えることとほぼ等しい。
もう少し説明をすると、生きている状態というのは、例外なく「死ぬ途中」である。どんなに成功していても、どんなどん底にあっても、それがその人の最終的な結果ではない。スポーツを見ればわかるが、途中どんなに押していても、試合終了時に勝っているか負けているかで、評価は決まるのだ。
もちろん、評価なんかどうでも良い。自分の人生は自分のものだ。死んだときにその人の価値が決定するといったところで、そのときには評価を受ける自分がいなくなっているではないか。そんなの全然面白くない、との意見ももっともである。そういう「死に方」もある、と思う。
僕自身は、人間も動物であって、野垂れ死にするのが本来である、と考えているから、死ぬときの状況はさほど気にならない。家族に看取られようなんてこれっぽっちも望んでいない。それに、まえにも書いたけれど、長生きしたいという欲望もまったくない。ただ、一つだけあるとしたら、できるかぎり苦しみたくない、ということである。
僕は、病院に何十年も行っていない。風邪薬も頭痛薬も一切飲まない。苦しいときは寝ることにしている。眠れないくらい苦しい病気も幾つかしたけれど、救急車を呼ぶまえになんとか治った。一番酷いときは三日間苦しんだ。もう諦めようかと思った頃に少しずつ良くなり始め、もしかして、まだ生きられるかな、と思ったのを覚えている。
そんな僕であるから、もし具合が悪くなったら、とにかく、痛みや苦しみを避ける治療をしてもらうことはあるだろう。でも、病気を根本的に治してほしい、とは思わないし、また、この治療をすれば寿命が延びる可能性がある、といったものもご免だ。だから、健康診断も不要。
ようするに、延命治療は望まないということである。それから、もし合法になったら、是非とも安楽死で死にたいとも考えている。
命懸けが普通
死について考えるというのは、若者には難しいかもしれない。しかし、仕事でもなんでも、たいていは終わりというものがある。プロジェクトにも業務にも、区切りがあって、そこでその作業は一旦終わる。これは、その役目が死ぬことだと認識すれば良いだろう。
よく「死ぬ気で頑張れ」などと言うが、死ぬ気にならなくても、どうせ最後は死ぬのだ。終わったときには、もうその仕事については取り返しがつかないし、やり残したことがあってもできない。次の仕事で、生まれ変わったつもりで頑張るしかない。
そもそも、生きていることが、命懸けであり、死ぬつもりで頑張っている状態なのである。死に物狂いなどと言うけれど、生きているものは例外なく死に物狂いなのだ。
眠くて起きられない、だらだらと時間を過ごしている、今日も酔っ払ってしまった、毎日こんなふうで良いのだろうか、と考える人も、それはそれで、そのまま死に物狂いだといえる。その状態こそ、その人の精一杯の生き方かもしれない。
まずは、忌み嫌うことなく、死について真面目に考えてみよう。考えただけで死ぬわけではないから、安心してじっくりと考えることが大事である。誰の死でもない、自分の死なのだから、あなたしかそれを考える人はいない。
生というものは、死と切り離すことはできない。有るか無いかではなく、表裏だと思う。どちらかが、たまたま上になっているだけだ。
宗教的な話をしているのではない。
除雪車の整備
雪に備えて、庭園鉄道の除雪車を整備している。以前にその写真をここで紹介したが、モータで駆動するタイプで、エンジンの発電機も搭載している。これを最近はハイブリッドと呼ぶようだが、そんなに新しくもないし、珍しくもない方式で、既に実機では多数の実例がある。
時代に逆行し、エンジンでロータを回す方式に改造しようとしている。その方が手軽だからだ。雪はまだ当分降りそうにないが。
近所の池のカモたち。餌をもらえると思って寄ってくる。だから、「良いカモだ」と言われるのだろう。