織田信長、真田幸村、井伊直弼、坂本龍馬―――。日本史上、暗殺や討死によって最期を遂げた有名な人物は数多く存在する。
では、その実行犯となったのは、どういった人物だったのだろうか!? これは、一般的にはマイナーな『日本史の実行犯』たちの物語!
島田一郎 ~維新三傑・大久保利通を暗殺した男~の画像はこちら >>
暗殺現場付近の清水谷公園にある「大久保公哀悼碑」

 

 明治維新の立役者となった大久保利通(おおくぼ・としみち)。幼なじみの西郷隆盛や長州藩出身の木戸孝允(きど・たかよし)と共に「維新三傑」に数えられています。その大久保は、紀尾井町において襲撃され最期を迎えました。いわゆる「紀尾井坂の変」です。その暗殺を実行した刺客6人の中心人物こそ「島田一郎(しまだ・いちろう)」という31歳の元加賀藩士だったのです。

 幼名を「助太郎」、諱(いみな)を「朝勇(ともいさみ)」という島田は、嘉永元年(1848年)に加賀藩(石川県金沢市)の足軽の子として生まれました。15歳で割場附足軽となり、やがて壮猶館(そうゆうかん:洋式兵学の訓練所)で稽古方手伝となり兵学を学びました。
 後に「風采威厳あり」と称された島田は、小さい頃から真っ直ぐで豪快な性格だったそうで、幼少期に友人との口ケンカの末に「それなら食ってみろ!」と犬の糞を指し出された時は、それを実際に食べてしまったと言われています。

 元治元年(1864年)には「第一次長州征伐」に従軍し、翌年は京都に派兵されました。明治元年(1868年)の「戊辰戦争」では北越各地で転戦し、負傷したものの、軍功により御歩並(おかちなみ)に昇格しました。
 戊辰戦争後には東京守衛の金沢藩兵として上洛すると、明治4年(1871年)4月には仮少尉、同年6月には少尉、同年9月には準中尉と出世したものの、明治新政府の「版籍奉還」によって藩兵は解散し、島田は帰省することになりました。その後、兵学修業を命じられてすぐに再上京し、陸軍士官の塾でフランス式兵学を学び始めました。

 成り上がりのエリートコースを順風満帆に歩む島田でしたが、「明治六年の政変」によって人生は大きく変わってしまうのです。
 この政変は「征韓論(朝鮮を武力によって開国させるようとする主張)」を巡る明治政府の内部対立に端を発したものでした。西郷隆盛や板垣退助、江藤新平らは征韓論を主張しましたが、結局は岩倉具視や木戸孝允、大久保利通らに反対され、西郷らは一斉に下野(げや:官職を捨てて民間に下る)してしまいました。この政変によって、明治新政府の実権は岩倉、木戸、大久保ら一部の者が握ることになったのです。

 西郷らが主張する「征韓論」を支持していた島田は、この政変を聞いて憤怒したと言います。また、これに前後して「徴兵制」や「廃刀令」など、明治政府の急進的な改革により士族の特権が失われていたことも重なり、島田は軍人としての出世を捨てて、元武士である士族が政治に携われるよう、国事に奔走する道を選ぶことにしたのです。

「明治六年の政変」後に、各地で士族の反乱が起きました。明治7年(1874年)の「佐賀の乱」、明治9年(1876年)の「神風連の乱」「秋月の乱」「萩の乱」などがそうです。
 島田は金沢の三光寺(忍者寺で有名な妙立寺の隣)を拠点に活動し、県下有数の政治勢力(三光寺派:不平士族の一派)を築いていました。そこで、九州を中心とした不平士族の反乱に呼応して挙兵し、新政府を挟み撃ちにしようと計画を立てましたが、思い通りに兵が集まらず、計画は頓挫してしまいます。

 明治10年(1877年)には「西南戦争」が勃発しました。

 

「此度こそは挙兵を!」

 島田は各地を奔走し、出羽庄内の同志の力を借りれば挙兵できるところまでこぎつけました。

しかし、島田は最終的にこれを断ってしまいます。

「どうして庄内人などの力を借りる必要があるのだ!」

 石川県人の力を過信していたきらいがある島田は、この挙兵を同郷の同志だけで行いたいと考えていたようです。これは加賀藩(版籍奉還後に「金沢藩」と改められる)が戊辰戦争や明治維新の際に大きな功績がなかったという負い目が島田にあったためだと考えられます。結局、この時も挙兵に失敗しました。

 そして、不平士族の拠り所であった西郷の死によって追い詰められた島田は、挙兵ではなく要人暗殺に方策を転じることになります。島田は士族を政権から追いやった政府の要人たちが、私権を揮って国家を悪い方向へ導いていると信じて疑わなかったようです。

「この度、西郷さんが2人の佞臣(ねいしん)のために倒されたことを自分は耐えられない!ゆえに自分はこの両人を殺害したい!」

 島田は近い人物にこう述べたと言います。島田の言う2人とは「維新三傑」の木戸孝允と大久保利通でした。しばらくすると木戸は病死したため、島田の標的は大久保ただ一人となります。

「国家のために大久保参議を殺害するつもりなり!」「大久保参議を斬る所存なり!」

 島田は同志を募るため奔走し、暗殺計画を包み隠さず話したと言います。また島田は、計画の事に関して以外にも自分の個人的なことを飾らずに話すような人物だったそうで「誠に愉快な人」と後に評されています。

 明治11年(1878年)3月25日、島田はいよいよ東京に向けて金沢を出発しました。

出発にあたって、離縁した妻に遺書めいた長い手紙を書き、十首の歌を付しました。そして、その他にも多くの歌を残しています。その内の一首は、特に死を覚悟した内容になっています。

「かねてより 今日のある日を知りながら 今は別れと なるぞ悲しき」

 4月上旬、島田は東京に到着し、四谷の林屋(現・四谷中学校の校庭)を宿舎として、5人の同志と共に大久保の人相や動向を探りました。5人の同志とは島田と同じく加賀藩士であった長連豪(ちょう・つらひで)、杉本乙菊(すぎもと・おとぎく)、脇田巧一(わきだ・こういち)、杉村文一(すぎむら・ぶんいち)と、鳥取藩士であった浅井寿篤(あさい・ひさあつ)でした。

 入念な探索の結果、大久保は4と9のつく日に出勤することがわかり、乗車する馬車や経路も把握することが出来ました。5月7,8日に再び林屋に集まると、決行日を5月14日と決定しました。
 決行するにあたって島田は犯行表明と取れる「斬奸状(ざんかんじょう)」を知人に依頼して作成しました。そこには政府に対する5つの罪状が列挙されていました。

其一、公議を途絶し、民権を抑圧し以て政治を私す

(国会や選挙を開設せず、民権を抑圧している)

其ニ、法令謾施、請詫公行、恣に威福を張る

(法令を頻繁に出し、また官吏の登用に情実が使われ、私腹を肥やし威張っている)

其三、不急の土木を興し、無用の修飾を事とし、以て国財を徒費す

(不要な土木事業により、国費を無駄遣いしている)

其四、慷慨忠節の士を疏斥し、憂国敵愾の徒を嫌疑し、以て内乱を醸成す

(忠義ある志士を排斥して、内乱を引き起こした)

其五、外国交際の道を誤り、以て国権を失墜す

(外交政策の誤っているため、国威を貶めている)

 大久保は新政府を確立するためには30年はかかると考えていましたが、そういった長期的な考えは島田などの不平士族には届かなかったようです。

 そして、時は明治11年(1878年)5月14日を迎えます―――。

 

 午前7時30 分頃、島田を含む6 人の刺客は斬奸状を懐に入れ、林屋を後にしました。

かねての打ち合わせ通り、2,3人ずつ分けて歩き、無地の羽織を身にまとった島田は少し後から遅れていったと言います。

 間もなくして、6人は暗殺決行の場所にたどり着きました。その場所は、紀尾井町清水谷にある北白川宮邸(現・東京ガーデンテラス紀尾井町)と壬生邸(現・ホテルニューオータニ)に挟まれた、人通りの少ない細い道でした。
 島田は、前日に石橋の下に竹筒に入れて隠しておいた長刀を手にした後、身を隠して大久保の馬車をじっと待ちました。

 午前8時頃、大久保は霞ヶ関の私邸を出て赤坂の仮皇居へ向かいました。馬車は赤坂御門前で右に入って紀尾井町へ進み、いよいよ島田が待つ道へ差し掛かりました。
 馬車が石橋を渡るや否や、馬車の右手側にあたる北白川邸の草むらから、刺客の内の2人が馬車の前に現れ、馬丁の静止を無視して隠し持っていた刀で馬の脚を斬り付けました。この一刀は失敗しましたが、第二刀を浴びせて馬車を止めました。これとほとんど同時に、島田は背後から馬車に駆け寄ります。

 御者は切り捨てられ、馬丁は助けを求めにその場を脱出しました。
 残るは大久保利通、ただひとり―――。

 大久保は馬車内で書類を読んでいましたが、襲撃に気付き、左側からの扉から脱出を試みました。

しかし、その扉の外には島田が待ち構えていました。島田は自ら馬車の扉を開き、左手を伸ばして大久保の右手を力いっぱい掴みました。

「無礼者!」

 大久保が一喝しましたが、それを遮るように島田は大久保を斬り付けます。
 その一刀は大久保の眉間を斬り割き、続いて大久保の腰に刀を突き刺しました。さらに、反対側の扉に駆け付けた刺客も、扉を開けて大久保を斬り付けました。

 この時の大久保の様子を「余を睨みし顔の凄く恐ろしさ。何とも言われぬ面色は今に忘れず」と島田は後に振り返っています。

 馬車の中にいる大久保を斬り付けた刺客は、大久保を馬車から引きずり出しました。重傷を負っていた大久保は、なおもよろよろと歩いたと言います。島田はふらつく大久保を斬り捨て、大久保はとうとう力尽きました。

「首は取るな。武士は止めを刺すのが礼だ」

 首を持っていくことを制した島田は、最後に短刀で大久保の喉を突いたといいます。

時刻は午前8時30分頃。あっという間の出来事でした。
 島田は暗殺直後の様子を後に振り返っています。

「この時、声が嗄れて喉が渇き、動悸が強くその場に倒れそうになった。何とか気を取り直して、ようやく傍らの溝へ這い寄り水を飲んで喉を潤し、人心地になった」

 相当な興奮状態にあったようです。この時の湧き水は涸れてしまったそうですが、「清水谷公園」の前には当時の湧き水が復元されています。
 また、この事件は一般的に「紀尾井坂の変」と呼ばれていますが、実際は紀尾井坂ではなく、その200mほど手前で起きています。しかし、事件直後から「紀尾井坂」が暗殺現場の地名の「紀尾井町」と混用され、誤った方の「紀尾井坂」が定着してしまったと言われています。

 暗殺を終えた島田一行は、赤坂の仮皇居に向かい、守衛に対して声高にこう述べたそうです。

「拙者どもは只今、紀尾井町において大久保参議を参朝の途中に待ち受けて殺害に及びたれば、宜しくこの旨を申し通じ、相当の処分を施されよ」

 すると、守衛は名前を尋ねてきました。それに対して島田は「委細、この如くだ」と懐の斬奸状を指し出しました。斬奸状に目を通した守衛が「まだまだ同志の者があるか」と尋ねると、こう答えたと言います。

「左様でございます。国民三千万人の内、官吏を除いた外は皆同志であります」

 その後、島田らは鍛冶橋の監獄に送られました。そこで島田は息子の太郎に対して訓言を残しました。そこには「忠孝・文武の道を忘れないこと」「正邪を明らかにすること」「母を大切にすること」など、武士としての心構えが記されています。
 そして、それから約2週間後の7月27日に国事犯である島田に対しての判決が下されました。判決は斬罪。判決直後直ちに処刑が行われました。享年は31でした。

 吉田松陰の首も斬り落とした斬首役の山田浅右衛門が、島田の首を落とす前に「何か申し遺すことはあるか」と尋ねました。すると島田は無造作に首を振り「いや、この期に及んで何も申し遺すことはなし」と泰然自若としていたため、浅右衛門がその姿に思わず感じ入ったと言います。

 島田たちが暗殺の際に使用した刀の一振は「警視庁」に保管されており、襲撃の激しさを物語る刃こぼれなどを現在でも見ることが出来ます。また、大久保が乗っていた馬車も現存しており、岡山県倉敷市の「五流尊瀧院(ごりゅうそんりゅういん)」に襲撃時の血痕や刀傷などを目の当たりにすることが出来ます。

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