「生涯不犯」の理由
景虎こと上杉謙信は生涯妻帯せず、禁欲生活を貫いたため、「不犯(ふぼん)の聖将」などと神格化されることがある。このような誓いを貫いた戦国武将は稀少であり、謙信の個性を示す特徴として注目される。
しかし、「不犯」などというものは、常識的に考えて、中世の為政者に望まれる行為ではない。実子のない謙信は養子を求めなければならなくなり、これがもとで死後は「御館の乱」と称される内乱を招いた。
これほどまでにリスクの高い「生涯不犯」を貫いたのはなぜであろうか。
妻帯や生殖が重要な「政治」だったことは誰もが熟知していた。謙信は家臣の縁談・人質・進退問題について指示を加えており、「三十歳にもなって妻帯しないのは好ましくない」と家臣に縁談を世話したほか、若くして病死した家臣から、「実子たりとも名跡十五才」に満たなければ一旦知行を召し上げ、成人後少しずつ返していく「御大法」に基づき、城を没収してもいる。謙信とて婚姻の政治性を軽視していなかったのである。
それではなぜ謙信は不犯し、妻帯を避けたのか。一般には「性指向説」、「宗教戒律説」、「性的不能説」の三つが有力視されている。それぞれ、検証を試みよう。
謙信は「男色」だった説
「性指向説」は戦国武士に流行した(とされる)男性間の同性愛、すなわち男
色への傾倒から異性愛を受け入れられなかったとする考え方である。俗っぽい説であるが、後例として江戸時代の徳川家光が挙げられるように、安易に否定できるものではない。
謙信の情報を求めた近衛前久が書状に、「少弼(謙信)ハ、若し(若衆)数奇のよし、承り及び候」と書き残していることからも史料的裏付けがないわけではない。
ただ、これは将軍と関白が謙信のいない席で、「きゃもし(華文字= 華奢)なる若衆数多あつめ候て、大酒」を楽しんだ際に交わされた噂話であることを留意せねばならない。あくまで「謙信は若衆が好きらしいと聞きました」という伝聞なのである。
それにもし本当に同性愛者だったとしても、「男色以外はしたくない」などと言って、異性婚を拒否した戦国武将がどれほどいただろうか。当時は、政治よりも性指向を重んじる風潮などなく、謙信だけが特例だったとするにはそれなりの説明が必要となろう。
ここで確認されたいが、若い頃の謙信は「祈恋」と題する歌を残している。「つらかりし 人こそあらめ 祈るとて 神にもつくす わかこゝろかな」。これは「想うだけでつらくなる人がいる。しかし何を祈ろうか。我が心は神に捧げているのに」と解釈される。信仰のため、恋愛感情を抑えねばならない──そういう苦悩を詠み上げた和歌とされる。
もしこの歌が同性相手への歌なら、同性愛すら「神にもつくす」ために避けていたわけで、逆に異性愛に基づくものなら、女性に興味がありながら不犯を通していたことになる。どちらにしても、「同性愛への傾倒」からなる説は成立しないのではなかろうか。
宗教が原因だった説
この和歌で示唆された「宗教戒律説」はどうだろうか。
仏法への帰依と人格形成を志すとともに、軍神( 毘沙門天や飯綱明神)に功徳を求めて、「不邪婬」の戒律を守ったという説である。
江戸時代に書かれた『越後軍記』では、天文二十一年(一五五二)正月十五日、二十三歳の謙信が群臣を集め、毘沙門天に「自分は天下の乱逆を鎮め、四海一統平均したいと考えています。もしこの願いがかなわなければ、速やかに病死させて下さい」と祈り、魚肉、色欲を断ったと記す。そして多くの史書がこれに同調し、不犯の理由を「軍神への帰依」によるものと位置づけたため、この見方は広く浸透した。一応、文献にあることだから、根拠として申し分ないように思われるが、出所が後世の軍記というのがひっかかる。
より良質の史料に目を転ずればどうだろうか。弘治元年(一五五五)冬、謙信は大徳寺の門を叩いて、「宗心」の法号とともに「三帰五戒(さんきごかい)」を授かった。五戒とは、僧の修行者が授かるもので、不殺生(殺さず)・不偸盗(奪わず)・不邪淫(犯さず)・不妄語(騙さず)・不飲酒(飲酒せず)の誓いをいう。
だが、謙信は大国の大名だった。しかも勇猛な武辺者で、虚言や殺生と無縁ではいられなかった。遺品「馬上盃」や辞世「一期栄華一杯酒」からも窺うかがえるように酒を愛した。
受戒後の謙信は、「宗心」と法号を称すると国政から遠ざかり、出奔したことがある。が、結局は祖国の安否が気になり、法号を捨て、大名に戻った。私的な心情(信仰)よりも公的な役割(政治)を重視したのである。信仰は何も絶対の価値観ではなかった。
性的に不能だった説
このようにふたつとも「生涯不犯」を積極的に解明する力を持たない。
では「性的不能説」はどうだろうか。肉体的に性交渉が不可能だったという見方である。裏付けとなる史料には乏しいが、ありえなくもない。だが、この説には落とし穴がある。なぜ、周囲の人々はそんな謙信を当主に推したのかという問題である。
実子をなしえない若者に一国の未来を託すなど好ましい話ではあるまい。当主が妻子を持てないなど、戦国期には致命的な欠点である。それなのに晴景を降ろして、わざわざ不能の弟を新たに当主に据えるなど、不合理ではなかろうか。
「名代家督」のため作りたくても作れなかった?
性指向、宗教戒律、性的不能、いずれも違うとすれば答えはどこにあるのだろうか。
ここで見てもらいたいのが上杉藩の公式記録『上杉年譜』である。ここでは、一般に通りのよさそうな宗教戒律説を一切紹介せず、謙信が晴景家督を譲られた時、「晴景嫡男成長の時に至りては速やかに家督を渡すべし」と約束したことが記されている。晴景嫡男の後見役として一時的に家督を預かる中継ぎ当主だったとされているのだ。言わば「名代家督」にされたというのである。
こういう変則的な家督相続は戦国期に多かった。有名どころでは小鹿範満と今川氏親、上杉朝興と上杉藤王丸、織田信雄と織田秀信が、実例として挙げられよう。国人クラスならそれこそ無数の例がある。
長尾家の群臣は謙信に婚礼を勧め、理を尽くして説得を試みたが、承諾されなかった。
こうして「名代家督」の立場を堅持するため、妻帯を拒み、かつまたその決意を固めるために神仏へ戒律を求めた。毘沙門天に宣誓する前から色欲を避けていたのも、「三帰五戒」を授かったのもそのためで、「父子への節義」をより強固なものとするため、毘沙門天や仏法の戒律に頼ったのではなかろうか。
しかし謙信二十二歳の時、兄晴景が病死し、その子も元服前に早世してしまった。相次ぐ嫡流の死に直面した謙信は、すでに神仏の前で不犯を誓っており、いまさら妻帯することもできず、他家から養子を取らねばならなくなっていく。
謙信は、政治に無関心だからではなく、政治と婚姻の重さを理解していたからこそ妻帯を避けた。「生涯不犯」の真相は、このように理解していいであろう。
